【全国順位】
3,034位
【全国人数】
およそ4,200人
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江畑さんの多い地域 TOP5
都道府県 | 人数 |
---|---|
千葉県 | およそ720人 |
東京都 | およそ460人 |
北海道 | およそ360人 |
滋賀県 | およそ320人 |
大阪府 | およそ280人 |
市区町村 | 人数 |
---|---|
千葉県銚子市 | およそ340人 |
滋賀県彦根市 | およそ180人 |
鹿児島県薩摩川内市 | およそ130人 |
茨城県石岡市 | およそ110人 |
秋田県男鹿市 | およそ90人 |
江畑さんの比率が多い地域 TOP5
都道府県 | 比率 |
---|---|
滋賀県 | 0.02336% |
秋田県 | 0.02025% |
富山県 | 0.01285% |
千葉県 | 0.0118% |
鹿児島県 | 0.01147% |
市区町村 | 比率 |
---|---|
北海道天塩郡遠別町 | 0.672% |
千葉県銚子市 | 0.578% |
秋田県男鹿市 | 0.331% |
新潟県胎内市 | 0.27% |
大分県豊後高田市 | 0.186% |
江畑さん有名人アクセスランキング TOP10
名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
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江畑 幸子 | 1989年 11月 7日 | スポーツ選手 | バレーボール |
江畑 杢右衛門満真 | その他 | 為我流柔術の開祖 | |
江畑 秀範 | 1992年 8月 8日 | スポーツ選手 | 第5回~第16回全日本テコンドー選手権12連覇。旧名:金秀範。現在は日本に帰化。 |
江畑 絢子 | 1938年 3月 | 芸能人 | 東宝所属。1965年に引退。 |
江畑 裕之 | 芸術家 | 華道表現派の流祖(初代家元) | |
江畑 兵衛 | 1979年 5月 11日 | 音楽家 | バンド・TRIPLANEヴォーカル |
江畑 晶慧 | 1983年 6月 21日 | 芸能人 | 劇団四季所属。韓国籍(本名:李晶慧)。 |
江畑 謙介 | 1949年 3月 23日 | 文学者 | 軍事評論家 |
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江畑さん みんなの名字の由来 |
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【彦根藩 足軽】改訂 恐らく元和・寛永の足軽大増員期以降に鉄砲足軽として召し抱えられたと推測される。本姓は藤原氏とするが、出自は不詳。 彦根藩の足軽は他藩に比べて優遇されており、俸禄は二十俵二人扶持(管理職の手代になると四十俵三人扶持)で門構えのある屋敷(敷地約五十坪)も与えられた。さらに現役引退後の再雇用ともいえる「番上がり」などの制度もあり、非常な厚待遇だった。 江畑の名字を名乗る足軽は三家存在したが、そのうち二家は幕末までに家名が途絶えたようだ。 明治維新まで唯一存続した江畑家最後の当主 江畑丑之丞古樹(ひさつぐ)は、戊辰戦争で渡辺昌寿率いる彦根藩銃手組小隊に属して東山道を転戦したと考えられる。渡辺隊は新撰組局長 近藤勇を捕縛した事で知られている部隊だが、小山宿の戦いで大鳥圭介率いる旧幕府軍に惨敗し、続く宇都宮城の戦いでも衆寡敵せず敗走の憂き目となった。それらの戦いで彦根藩は少なくない戦死者を出したが、江畑古樹は彦根への帰還を果たした。 |
【投稿日】2024/02/21 10:54:01 【投稿者】蝶番さん |
【近江商人④】 栗太郡物部村の江畑栄太郎は、商売で大成功したというのではないが、現代に繋がる重要なの事績を残した。 栄太郎は明治四十二年(1909年)の新聞記事に四十六歳とあるので、文久三年か元治元年の生まれだと思われる。 旅館「泉屋」(白水楼とも称した)を経営していた彼は、明治三十二年(1899年)に宿泊客だった動物学者 渡瀬庄三郎博士(元シカゴ大学客員教授で当時は東京帝国大学教授)の調査に同行したのがきっかけで、地元守山が全国屈指の蛍の生息地であることを知り、蛍を皇室に献納する事を志した。その志は早くも明治三十六年(1903年)に果たされた。県知事や郡長の尽力もあったというが、当時ほとんど前例のなかった個人での皇室献納に成功した理由は、今でも謎とされる。その後、彼は大正二年(1913年)までほぼ毎年5籠(蛍3万頭)の献納を、都合十度にわたって果たした。この回数は個人献納者としては他に類を見ない程の事績で、守山蛍の名を全国に広め、現代において滋賀県守山市が蛍の里として知られるきっかけを作ったと言える。 |
【投稿日】2023/07/16 14:26:56 【投稿者】蝶番さん |
【近江商人③】 犬上郡磯田村出身の江畑兄弟は、近代最も繁栄した一族。 江畑惣平・ちの の息子、寅吉・弥吉・弥惣吉・弥惣次郎は、才気溢れる母親の薫陶を受けて成長し、揃って商売に成功した。 長男の寅吉は家業の質屋を継いで、商才豊かな人物だったが、惜しくも早世した。彼の息子と孫はいずれも政治家となった。 次男の弥吉は1906年にタイのバンコクに渡り雑貨商「江畑洋行」を設立し、後には東南アジア各地に支店を展開した。「江畑洋行」は写真館としても有名だった。また弥吉は大規模農場の経営にも成功し、タイ国王にも名前を知られる存在となった。弥吉は現地でタイ人女性と結婚して子供を儲けた。彼の長男の朔弥はオックスフォード大学にも留学した英才で、タイの元首相で陸軍の重鎮でもあるプラヤー・パホン伯爵の親族の娘と結婚し、日泰間で通訳として活躍した。しかし、弥吉一家の繁栄は戦争によって奪われることになる。日本の敗戦によりタイ政府は慌てて「英米に対する宣戦布告の無効と撤回」を宣言して敗戦国となる事態を回避したが、事実上英国の占領下に置かれることになった。すると、戦時中の日本軍との関係からスパイ容疑をかけられた朔弥が懸賞金付きで指名手配されるなど、弥吉一家は窮地に立たされ、結局日本へ強制送還されてしまった。東京裁判で朔弥は不起訴となったが、タイ政府は弥吉一家の帰還を拒否し続け、弥吉とその息子達は失意の中で戦後日本を生きた。 三男の弥惣吉は大阪で材木商となり、四男の弥惣次郎は大阪で質屋を本業としながらいくつかの会社で社長や重役を歴任した。 |
【投稿日】2023/07/16 11:34:32 【投稿者】蝶番さん |
【近江商人②】 犬上郡高宮村の江畑茂平は特産品の麻布を商う商人で、天保三年(1832年)には彦根藩国産方産物御用懸りに任じられ、彦根藩領内の麻布生産の監督と品質管理を行った。 茂平が産物御用懸りに就任した直後、大事件が起こる。それは金沢の有力商人・一丸甚六(金沢の呉服商宮腰屋の九代目で、加賀藩産物方の御用も務めていた)と結託した南都商人・堺屋庄兵衛(木津川水運の八木庄兵衛か?)が、加賀前田家の威光を利用して能登・越中の麻苧(麻布の原料)を買い占めた事で、近江国内の原料仕入れ業者が次々と廃業寸前に追い込まれた事件。被害は彦根藩領だけでなく、大和郡山藩領や旗本三枝家領にも及んだ。茂平は彦根藩に働きかけて、仕入れ業者に鑑札制を導入し、堺屋達が近江国内で麻苧を自由に売り捌くのを阻止し、自国の仕入れ業者を守った。 茂平はその後、高宮村の物頭(庄屋)上田与三右衛門と組んで、犬上川に無賃橋(無料で渡れる橋)を架設したり、米札引換所の銭換金を請け負うなど、投機的な商売を行った。 彼の跡は息子の真次が江畑茂平を襲名し、明治期には高宮出身の大富豪・前川家と姻戚関係を結ぶなどしたが、往時の勢いを取り戻すことはなかった。 |
【投稿日】2023/07/16 10:43:49 【投稿者】蝶番さん |
【近江商人①】 文政七年(1824年)将軍から日光代参を命じられていた井伊家では、その費用捻出の為、親族である豊後岡藩や越後与板藩から援助を受けた他、彦根藩領内の町人や寺社からも御用金を調達した。その際に「江畑」が金七百両を負担した記録がある。その金額は町人・寺社の中では最高額で、かなり富裕な商人だった事が分かる。 また、安政四年(1857年)彦根藩の調査によると、彦根城下53町2207軒の商人の中で、橋向町の江畑弥兵衛は、上位3%に相当する経済力「上々」と評価されている。江畑家は当時彦根城下町で10軒程しかなかった一本紙町人の1軒だった。 ※一本紙町人とは、通常は町毎に纏めて作成される宗門人別帳を一軒単独で作成する特権の事。一本紙が許可されると、寺社奉行を介さずに藩から直接命令や指示を受ける立場になり、町人としては最高のステイタスだった。原則は一代限りの許可だが、世襲されることも多かった。 |
【投稿日】2023/07/16 09:59:43 【投稿者】蝶番さん |
佐竹一族大山氏家臣の江畑さんは天正元年における常陸国在住時代には2家あります。「江幡(江畑)民部少輔」家、「江幡(江畑)尾張守」家です。 秋田県公文書館家系図1の佐竹資料には江畑家(2)とありこの2家の事と思います。また別に「江ハタ」(ハタは巾べんに者)が1家あります。常総軍記等には「江幡」と記載され秋田県の佐竹家臣名には「江畑」の字を充てていました。 |
【投稿日】2023/07/07 17:05:46 【投稿者】勝胤さん |
江畑さんの名字発祥の過程が徐々に明かされつつあり、しかも具体的で大変参考になりました。関東常陸を出自とする江畑(幡)さんは恐らく江戸氏に繋がる小野崎氏家臣の一族、佐竹氏の秋田移封に伴い分家が秋田に移住、その後、米沢、甲斐にも分家がでて、井伊家が彦根に移封されると元武田家臣の木俣氏に連れ立って彦根に江畑さんも入った、、、、
大元の江戸氏は近江栗太出身の平将門討伐で活躍した藤原秀郷、その妻のひとりが秦氏の娘だった事もあり、常陸江畑氏も秀郷に従軍した近江秦氏とどこかで関連しているのかもしれませんねえ。別の流れが近江商人の江畑さん。北海道から九州まで、大活躍された方々を偲ぶばかりです。 |
【投稿日】2023/07/06 20:06:33 【投稿者】えばちゃんさん |
【米沢藩 足軽】 元禄三年(1690年)の分限帳に旗指足軽として、江畑十左衛門・江畑利右衛門・江畑長右衛門の三名が確認できる。十左衛門の子孫は鉄砲足軽となり、江戸時代後期までは代々 十左衛門を名乗っていた模様。米沢藩の鉄砲足軽は世襲制で、幕末期には江畑姓の足軽が2件あり、明治まで存続したと思われる。奉禄は元禄期から幕末期まで変わらず、概ね一人扶持二石だった。 |
【投稿日】2023/07/01 14:22:54 【投稿者】蝶番さん |
【大和郡山藩 藩士】 甲府城主時代(1704年~1724年)の柳沢家に、江畑仁右衛門が祐筆として仕えたのが始まり。奉禄は金九両三人扶持。後に主家の移封に従って大和郡山へ移った。子孫は御番方組頭や近習などを勤め、奉禄も知行四十五石に至って、明治まで存続した。屋敷は藩校 惣稽古所の西側にあり、家紋は亀甲ノ内横三引を使用した。 |
【投稿日】2023/07/01 14:07:40 【投稿者】蝶番さん |
福島県南部「陸奥国菊多郡江畑村」があった。この地は元は常陸国に含まれたが後に陸奥国域に変更されている。江戸時代は、「陸奥湯長谷藩」一万石、藩内は5村だけの小藩である。常陸佐竹氏は、関ヶ原に与力しなかった事や石田三成と親しかった事等で急な秋田久保田への移封を強要された。また大幅な減封のため常陸に残留するものが多かった。この為久保田(秋田)藩では、家臣の家系調査等を50年も経ってから故郷常陸に出向き在地の残留家臣家、名主、寺院を周り資料集めを進めた。この調査は、2度に亘り実施された。佐竹氏の「諸士系図」には江畑氏は2家掲載されている。但しこれは、家士等の身分により区分掲載されているので実際の江畑家の数は多いと思える。以上の理由により久保田藩には家臣の整理された家系図が残されています。関連投稿を「大山、前羽」にしてあります。 余談ですが「湯長谷藩」は、映画化された小説「土橋章宏氏の超高速!参勤交代」のモデルとなった藩です。 |
【投稿日】2023/03/10 07:40:28 【投稿者】勝胤さん |
滋賀県彦根市は明治の頃、海外移住が盛んに行われた地域。彦根市出身の江畑氏は、戦前のカナダやタイに足跡を残している。 |
【投稿日】2022/10/29 23:37:14 【投稿者】蝶番さん |
江畑という地名は、宮城県、福島県、茨城県、愛知県、三重県、香川県、大分県などにあり、江畑姓はそれぞれの地域から発祥した可能性がある。但し、最も広範囲に発展したのは常陸(現在の茨城県)を拠点とした江畑氏と思われ、江戸時代以降、主家の転封により東北・東海地方や関西方面に移動して各地に定着した。出羽久保田(秋田)藩、近江彦根藩、大和郡山藩、飛騨岩村藩に江畑姓の人物が確認出来るが、いずれも関東から転封した経歴の藩なので、そこに仕えていた彼らが同じルーツを持っていた可能性は高い。いずれの藩でも藩主の直臣ではなく、陪臣や足軽・手代など比較的軽い身分の為、嫡系以外は各地で帰農したり商人に転じるケースが多かったと思われる。 久保田(秋田)藩の江畑氏は藩主一門の大山家に仕えていた。大山家は知行650石ながら銀山で有名な院内を管轄する院内所預という要職にあり、江畑氏は代々その大山家の家老職として明治維新まで存続した。 彦根藩の江畑氏は主に鉄砲足軽として仕えており、他にも木俣家(彦根藩家老)などの家中にも同姓の人物が確認できる。また近江商人として成功した例も認められる。 郡山藩の江畑氏は不詳ながら、近江(彦根?)に出自があるのかもしれない。 岩村藩の江畑氏は出自が常陸であると思われる為、久保田藩の江畑氏とは同族の可能性が高い。 因みに、滋賀県・福井県・茨城県では江畑氏の先祖は藤原氏、秋田県では江畑氏の先祖は平氏という伝承がある。 使用する主な家紋に関しては以下のような分布がある。 ・丸に違い鷹羽……滋賀県、福井県 ・丸に抱き茗荷……滋賀県、鹿児島県 ・丸に木瓜……茨城県 ・丸に釘抜き……秋田県 |
【投稿日】2022/10/29 22:27:04 【投稿者】蝶番さん |
遡ること古墳時代から近江の湖東地方に依知秦氏(えちのはたうじ)と呼ばれた氏族があった。日本書紀に詳しい 彦根の江畑さんはこの氏族縁の一族だろう。畑は室町時代に出来た国字で応仁の乱前後に家名としての江畑が成立したのではないだろうか。 |
【投稿日】2018/10/10 21:04:08 【投稿者】えばちゃんさん |
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