【みんなの名字の由来】

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早矢仕さん
もともと林であった苗字が早矢仕となったのは、当時の殿様(土岐家)のお狩り場にて、弓の名手と認められた事から。2対からなる諸矢のうち、1本目の矢「早矢」のみで「仕留める」事が出来る、という事から早矢仕を名乗るよう賜った苗字。ちなみに諸矢の2本目の矢は「乙矢」と言います。和弓をやっている人ならピンとくるはず。林以前は国枝、越智という苗字であったとも聞いています。家紋の立ち沢瀉から源氏がルーツであると思われます。
【投稿日】2024/03/18 02:53:28 【投稿者】アンジーさん
卯山さん
時を遡ること戦国時代、山陰一帯の雄であった尼子氏の筆頭家老が卯山飛騨守(宇山:両方併記)と申される方でありました。詳しくは陰徳太平記などの史書にありますが、尼子のなかでも往時世界の30%を産出したと云われる石見銀山をその所領とし、戦での戦功は無論、全国屈指の山城である月山富田城での対毛利籠城戦に於いても、その才により特に兵站補給に奮迅し、山城の籠城世界記録をつくるなどしておられます。昨今のメディアでも、大河ドラマの毛利元就や英雄達の選択などにもキーパーソンのひとりとして紹介されています。飛騨守は尼子が滅びたその年の正月、茶坊主の讒言により、尼子自身に滅ぼされることとなりましたが、その行為は結果的に尼子の滅亡を招来することになり、当代藩主は今更ながらそれを悔んだと伝わっています。その際、広島、三次方面に落ち延びた飛騨守の子息がその氏の由来ということのようです
【投稿日】2024/03/17 21:52:35 【投稿者】Korinさん
大原さん
古代大原氏は、敏達天皇後裔河内王の子らが天平11年(739年)に大原真人の姓を下賜、臣籍に降下した皇別。門部王、桜井王、高安王はいずれも万葉歌人。
【投稿日】2024/03/17 18:18:04 【投稿者】匿名さん
さん
馬氏(馬毘登・馬史)は王仁の後裔で、西文氏の一族にあたる漢系渡来氏族。馬養部・午人等の伴造で、朝廷の馬匹に関する職掌、左右馬寮の馬部の負名氏を担っていたという。
河内国古市郡を本拠地とし、現在の羽曳野市蔵之内にある「馬谷」の地名にその名残を窺える。河内国古市郡は6世紀中頃からのヤマト王権にとって交通・運輸・倉庫の要所であり、渡来系氏族がその役を担っており、馬氏は西国からの貢納物を飛鳥に陸送する役目であった。
のち武生連、武生宿禰に改姓。
【投稿日】2024/03/17 15:09:33 【投稿者】匿名さん
今奉部さん
いままつりべ。祭祀に関連する部民か。「醜の御楯」の歌で知られる万葉歌人今奉部与曾布は、下野国の防人として筑紫に派遣された。
【投稿日】2024/03/17 15:00:33 【投稿者】匿名さん
海犬養さん
犬養部とは、ヤマト王権の直轄地屯倉を守衛していた品部(職掌部民)のことで、それを統率する伴造としては、県犬養連、海犬養連、若犬養連、阿曇犬養連、辛犬養連、阿多御手犬養の6氏族が記されている。その名の通りなんらかのかたちで犬を集約的に飼育し用いていたと言われる。
海犬養氏は、海神綿積命の後裔を称した海神族に属する地祇系氏族で、安曇氏と同族といい、海部の一部を編成したものが海犬養を称した。八色の姓以降宿禰に改姓。
645年乙巳の変に海犬養勝麻呂が参加。聖武天皇に仕え「みたみわれ」の歌を詠んだ海犬養岡麻呂は後世万葉歌人として知られる。740年(天平12年)の藤原広嗣の乱の際に、海犬養五百依が、征討軍軍曹として広嗣の従者二十数人を連行。他の犬養氏ともども軍事氏族化していき一定の活躍を見せるが、その後は天平年間に東大寺写経所廻使に名前が見える程度以外は振るわない。

筑前国那珂郡海部郷(福岡県福岡市犬飼地区)が根拠地の一つで、那津官家(福岡市南区三宅)に隣接していることから、那津の屯倉の守衛にあたったと推定されている。
宮城十二門には、 佐伯・若犬養同様安嘉門(海犬養の転訛)として名前を残し、古くから宮中の護衛にあたったことが示唆されている。
【投稿日】2024/03/17 14:39:20 【投稿者】匿名さん
阿氏さん
あし。阿氏は氏を一字だけ取って中国風に記したもので、阿倍氏(安倍)であると考えられる。
【投稿日】2024/03/17 14:20:28 【投稿者】匿名さん
清峯さん
きよみね。清峯朝臣。阿倍氏の一族竹田氏(竹田臣)後裔氏族。弘仁4年(813年)、門継が一族5人と共に、竹田臣から清岑宿禰に改姓。
【投稿日】2024/03/17 08:27:30 【投稿者】匿名さん
県犬養さん
あがたのいぬかい、あがたいぬかいと読む。姓は宿禰。
犬養部は宮門、ヤマト王権直轄領の屯倉等の守衛にあたる品部(職業部)。これを統率した伴部は、県犬養、稚犬養、阿曇犬養、海犬養、辛犬養連、阿多御手犬養の6氏があったという。「県」は朝廷直轄地を意味するとされるが、不明。
神魂命の後裔を称する神別氏族。姓は連を授けられていたが、672年壬申の乱で大海人皇子側の舎人として功を立てたことにより、684年(白鳳13年)「八色の姓」制定にともなって宿禰姓。
『新撰姓氏録』の左京神別県犬養宿祢条には、系譜について「神魂命の八世孫、阿居太都命の後」と記述され、大椋置始連条には「県犬甘同祖」とある。
著名な県犬養三千代は、天武、持統、文武、元明、元正の五朝に出仕、敏達天皇系の美努王と婚姻して諸兄らを出産、元明天皇に橘姓を賜り実質的な橘氏祖となる。その後は藤原不比等と再婚、夫を助ける一方で実家県犬養の繁栄をはかり、県犬養広刀自を聖武天皇夫人につけ、縣犬養石次が参議に登ったが、橘氏の衰退とともにみえなくなり、後裔も知られない。
【投稿日】2024/03/17 05:16:04 【投稿者】匿名さん
櫛笥さん
藤原北家四条流。羽林家。
戦国時代に四条隆昌が四条家を再興、その後正親町三条公兄の孫にあたる四条隆憲が継承することになり、弟である隆致が兄の後を継承。慶長6年(1601年)5月、隆昌が徳川家康の奏請により許されて四条家当主に戻ると、隆致の系統は櫛笥を称し立家。櫛笥(くしげ)の名は平安京の櫛笥小路に由来する。
隆致の女隆子は後水尾天皇後宮に入り、後西天皇を出産、国母となり逢春門院を号す。また隆賀の女賀子は東山天皇後宮に入り、中御門天皇、閑院宮直仁親王など5皇子1皇女を出産したことにより、隆賀は従一位内大臣に出世。維新後に華族、隆督が子爵を叙せられる。
【投稿日】2024/03/17 01:18:27 【投稿者】匿名さん
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