【みんなの名字の由来】

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川喜田さん
「かわぎた」と読む人もいます。
【投稿日】2024/04/26 16:16:58 【投稿者】ちば子さん
奈波さん
「なは」と読む人もいます。
岐阜県。
【投稿日】2024/04/26 15:26:09 【投稿者】ちば子さん
大櫃さん
島根県安来市~鳥取県米子市に多くみられる。
【投稿日】2024/04/26 13:10:48 【投稿者】ちば子さん
小屋松さん
私の3代前の先祖が福岡県筑後の草野という所から来たと言うことです。
父が草野?善道寺?に40年以上前に訪れた際90件ほどの小屋松姓がいたとの情報で、家紋を聞くと渡辺の紋でした。なぜ、渡辺姓ではないのに
小屋松姓で渡辺の紋なのかが不思議です。
丸3っつに漢数字の一なのですが、筆で書いた(一)なのか普通の(一)なのかわからないと父が言っていました。
どなたか、小屋松の伝承、家紋など
お分かりになられる方がおられましたら、教えていただきたいと思います。
【投稿日】2024/04/26 03:42:09 【投稿者】マリさん
三由さん
亡くなった祖母から聞きました。
祖母の父親(曾祖父)がかつて山口県小野田市で市場を営んでいましたが、かつては油売りだったそうです。その油という漢字を二つに割って三由という苗字にしたということです。
【投稿日】2024/04/25 15:33:13 【投稿者】toshiさん
野津本さん
野津本さん本家の隣に住んでいます。
本家のある地域で、昔苗字が許され決める時に
既に苗字を名乗っていた「上野津(ウエノツ
」家に倣う形で「野津(ノツ)」を名乗る家が多かった。
その中で代表格であった家が野津の本となるとして「野津本」を名乗っていると言われました。(大きな旧家です)
上記の上野津家は江戸中期に改名されて「上野」になっています。(当家)
上記の野津家は、箆津氏とは関係なくて
箆津氏の派生と思われる家系は隣町に居られます。
「野津」と書いて「ノヅ」家です。
【投稿日】2024/04/25 13:58:54 【投稿者】UMさん
邑良志別さん
邑良志別君宇蘇弥奈(おらしべのきみうそみな)は、奈良時代の東北蝦夷(陸奥国の蝦夷)。
後世では東北地方の各神社で祀られており、蝦夷の人物神とされ、「オラシ」の名称に関してもアイヌ人の信仰と関連するものとされる。
【投稿日】2024/04/25 08:12:28 【投稿者】匿名さん
伊治さん
宝亀11年(780年)に伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)を引き起こした伊治公呰麻呂(これはり(これはる)のきみあざまろ)は、現宮城県栗原市付近を本拠としていた東国蝦夷の族長クラスの地位にあったと考えられる。「伊治」とは地名であり、栗原市にあった城柵伊治城付近一帯のことを指し、東国開発の拠点多賀城(多賀城市、仙台市の隣)より北に50キロほど離れた位置にある。「呰麻呂」という大和人風の人名を与えられており、このことから乱を起こす当初は蝦夷としての地位も保ちながら朝廷に官人として服属していたとみられる。
昭和53年(1978年)に解読された多賀城出土漆紙文書に「此治城」とあり、「此」と「伊」の訓読の一致から此治城を伊治城と同定できるため、「コレハリ」(または「コレハル」)と読むことが明らかになっており、現在では「いじ」と読まれることはあまりない。
『続日本紀』によれば呰麻呂は当初陸奥按察使の紀広純に忍従していたが、道嶋大盾に夷俘であることを複数回侮辱された個人的な怨恨を反乱の理由としているが、同時に多くの蝦夷や俘囚が立ち上がり参加したことから、朝廷の政策に対して彼らが日頃強い不満を抱いていた構造的問題(小帝国による辺境民に対する植民化)が背景にあるとする見方もある。
【投稿日】2024/04/25 07:54:35 【投稿者】匿名さん
宇漢迷さん
「うかめ」あるいは「うかにめ」「うかんめ」とされるが、正しい読み方は不明。
宇漢迷公宇屈波宇は蝦夷族長の1人で、宇漢米とは地名の音写と考えられる。城柵から逃亡し叛乱を企てる宇漢迷公宇屈波宇逃還事件を引き起こしたが、近衛中将の道嶋嶋足が陸奥国に派遣されて城柵に送還された。以降も「宇漢米」を名乗る俘囚とみられる人物が9世紀まで『日本後紀』『続日本後紀』等に現れており、宇漢米一族は結局朝廷に恭順したと考えられる。
【投稿日】2024/04/25 05:56:35 【投稿者】匿名さん
道嶋さん
道嶋氏は、陸奥国に展開した大伴氏族の豪族で、蝦夷系俘囚ではなく坂東から移住して開墾する大和朝廷の柵戸(移民系)と見られる。本姓は
丸子(丸子部)、牡鹿連、牡鹿宿禰。

前身の丸子氏(丸子部氏)は、景行朝武日命の子・阿古連を祖と称しているが、7世紀中頃に牡鹿地方へ移住した氏族という説もある。
『古屋家家譜』によると大伴金村大連孫で丸子連氏祖である大伴頬垂連公について「上総の伊甚屯倉(いじみのみやけ)を掌る」と注記していることから、元来は丸子氏の配下にあった上総国夷灊郡(千葉県夷隅郡・いすみ市・勝浦市)を中心とする地域にあった伊甚屯倉の耕作民であると考えられ、また宮城県東松島市矢本町に所在する矢本横穴墓群の中には、房総半島南部のものと同型式の玄室を持つ横穴墓がいくつかあり、この地に道嶋氏が上総地方より移住して拠点にしたことを裏付ける。

元は無姓丸子氏であり、天平勝宝5年(753年)6月に丸子牛麻呂や丸子豊嶋ら一族24人に牡鹿連の姓を与えられる。少し遅れて同年8月には丸子嶋足にも同じ姓が与えられ牡鹿嶋足を名乗る。
嶋足は、天平宝字8年(764年)9月の藤原仲麻呂の乱において、藤原仲麻呂の子の訓儒麻呂が勅使山村王を襲撃し御璽と駅鈴を奪った際、授刀衛少尉・坂上苅田麻呂と共に孝謙上皇の勅命を受け訓儒麻呂を襲撃し射殺した。嶋足は武功により従七位上から一足飛びに十一階も昇進して従四位下に昇叙、牡鹿宿禰姓を賜姓され、その後道嶋宿禰の新姓を与えられた。一方、道嶋三山は、神護景雲元年(767年)の伊治城造営では実質的な推進主体と推定され、論功行賞により外位の外従五位下より内位の従五位上に叙位され、中央貴族と同等の厚遇を与えられた。嶋足は中央政界で、三山は陸奥国内でそれぞれ道嶋宿禰一族を代表し、勢力を強めていった。嶋足が称徳天皇と道鏡から個人的な厚遇を受けていたこともあり、嶋足が陸奥国大国造に、三山が陸奥国国造にそれぞれ任命されると、陸奥国政は実質的に一時道嶋氏の掌中にあったものと考えられる。伊治城以前に造営された桃生城は道嶋氏本拠地の牡鹿郡に属していることから、その政治的影響下にあり、加えて伊治城も抑えたことで同氏は北上盆地における一大交易拠点である胆沢の通じる川と陸の道の両方を掌握。北方蝦夷に対する律令国家の諸政策の策定・執行を推進する現地機関として自らを位置付けることに成功したとされる。道嶋氏は神護景雲3年(770年)に再開された蝦夷の上京朝貢の復活を働きかけ、これが認められたことで陸奥国の蝦夷の上に君臨する巨大な族長権を樹立し、陸奥国に赴任する国司をはるかに凌ぐ磐石な支配体制を築き、一族は称徳朝下で最盛期を迎えた。
しかし、嶋足は宇漢迷公宇屈波宇(うかにめのきみうくつはう、蝦夷の名)逃還事件の頃には正四位上近衛中将兼相模守勲二等であったが、称徳天皇崩御と道鏡の失脚の後に光仁天皇が即位すると、それ以降は道嶋氏に政治的地位の上昇がみられなくなる。三山についても、それ以降歴史上にその名前が登場しなくなる。称徳天皇代の道鏡政権にきわめて親しかったため、なんらかの形で中央で失脚したか、あるいはその後台頭する藤原北家や式家に押され没落したと考えられる。
【投稿日】2024/04/25 05:49:02 【投稿者】匿名さん
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