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名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
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上毛野 田道 | 歴史 | 仁徳朝の武人 | |
上毛野 形名 | 歴史 | 飛鳥時代の武人 | |
上毛野 氏永 | 歴史 | 平安前期の貴族 | |
上毛野 小足 | 歴史 | 飛鳥時代の貴族、国司 | |
上毛野 堅身 | 歴史 | 飛鳥〜奈良時代の貴族、美作守 | |
上毛野 稚子 | 歴史 | 飛鳥時代の豪族、百済救援軍将軍 | |
上毛野 稲人 | 歴史 | 奈良時代の貴族 | |
上毛野 三千 | 歴史 | 飛鳥時代の豪族 | |
上毛野 小熊 | 歴史 | 古墳時代の豪族 | |
上毛野 穎人 | 766年 | 歴史 | 平安初期の貴族、漢詩人 |
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上毛野さん みんなの名字の由来 |
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上毛野氏(かみつけのうじ、かみつけぬうじ)は、上毛野国造を歴任した上毛野国(群馬県)の氏族。 第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命を祖とする皇別氏族で、上毛野君(公)のち上毛野朝臣。 古代に上毛野地域(現・群馬県)を拠点とした豪族である。「毛野(けの、けぬ)」とは古代の群馬・栃木周辺を指す地域名称で、現在の北関東、利根川流域上中流とされる。畿内からアクセスしやすい方から上・下に分割されており、上毛野国はのち上野国と省略されて令制以降も定着。 当地域には多くの古墳が築かれたことから古墳時代の東国・関東地域において随一の勢力を誇った在地豪族とみられている。 『日本書紀』には崇神天皇皇子の豊城入彦命に始まる独自の系譜伝承が記されており、その中で中央貴族が毛野地域に派遣され経営に携わったと伝えられているが、実際のところ在地豪族か中央派遣氏族かは古くからどちらの説もあり決着はついていない。また蝦夷征伐・朝鮮交渉従事の記事もあり対外関係に専門的に携わっていたヤマト王権の有力豪族の一つと考えられている。 大化以後は毛野出身氏族として「東国六腹朝臣」と総称される上毛野氏・下毛野氏・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏ら6氏が、朝廷中級貴族としてしばし活躍していた。これら氏族は伝承を共有しており、また他にも40弱もの同系氏族が『新撰姓氏録』等に記載されているが、系統関係の詳細は必ずしも明確ではない。 8世紀後半以後は、渡来系田辺史氏らが皇別上毛野君を賜るなど異例のことがあり、次第に記事に見られなくなっていきゆっくり衰退したとみられる。 『日本書紀』では豊城命(豊城入彦命・豊木入日子命)は東国統治を命じられたといい、豊城命について「上毛野君・下毛野君の祖」であると付記しており、また豊城入彦命が上毛野君・下毛野君の祖である旨は『古事記』にも載っており、これらのことから、両氏族は相当古くから中央朝廷にも東国を管轄する際にきわめて重視されたことが窺える。 『先代旧事本紀』「国造本紀」では崇神天皇代に豊城入彦命孫の彦狭島命が東方十二国を平定した時に、上毛野国造に封ぜられたとある。上毛野国造は代々同氏族によって担われたと考えられる。 主な人物として7世紀には、白村江の戦いにおいて、倭国主力軍の将軍として上毛野君稚子が朝鮮半島に派遣される段階で登場し、戦功あったとしており、また三千は『帝紀』と上古諸事の記定に携わったという。天武天皇13年(684年)に上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、池田朝臣、車持朝臣、大野朝臣の6氏族が朝臣を賜る。 8世紀以降は陸奥按察使などに同氏族から多くが就任し、陸奥蝦夷対策を請け負う氏族とみられていく。後世陸奥国の豪族に「上毛野陸奥公」や「上毛野胆沢公」等の賜姓、、俘囚の多くが上毛野氏系の部民に多い「吉弥侯部」を名乗ることになったことから、実態としても奥羽地域における蝦夷統治の最前線と看做されていたことがわかる。 広人が蝦夷の反乱に遭い殺害され、宿奈麻呂が長屋王の変に連座して配流後は次第に没落していく。以後は代わって渡来系田辺史の上毛野氏が中央にて台頭するようになる。平安時代初めから中頃にかけては、近衛府下級官人・舎人として見られるが、この時期には渡来系上毛野氏のほうが中央官僚として活躍している一方、旧来在地豪族氏族は宮廷武官を務めていた。 百済系渡来人の上毛野氏は、豊城入彦命(第10代崇神天皇皇子)五世孫竹葉瀬(たかはせ)を祖と称する皇別氏族。 『新撰姓氏録』上毛野朝臣(皇別 左京)条に「豊城入彦命五世孫の多奇波世君の後」と記すとともに「天平勝宝2年(750年)田辺史から上毛野公と改姓した」と注記。多奇波世(たかはせ)君とは、新羅が朝貢しないことを問責するため仁徳天皇の時に朝鮮へ派遣されたという武将であり、皇別上毛野氏の祖の1人だが、田辺史・上毛野公・池原朝臣・住吉朝臣ら渡来系4氏がにもかかわらず称したのは、『日本書紀弘仁私記』序にいわく「天皇、矜憐して彼の族に混ず。しかして、この書に諸蕃人というなり」とあり、仮冒の疑いが強い。天平勝宝2年(750年)に「上毛野君」を賜姓され、弘仁元年(810年)に「上毛野朝臣」を賜姓。以降中央要職官僚として活躍した。 また複姓の一族として、上毛野坂本朝臣、上毛野佐位朝臣、上毛野陸奥公、上毛野名取朝臣、上毛野鍬山公、上毛野中山公等が挙げられるが、必ずしも上毛野氏族と関係ある場合とは限らない。 女官檜前部老刀自は、称徳朝天平神護3年(767年)に上野佐位朝臣を賜姓されている。翌年の神護景雲2年(768年)には、女性ながら上野国造に任命されている。古墳時代の女性の地位を窺わせる記事といえる。また上毛野陸奥公は、主として上毛野氏に従属した俘囚吉弥侯部氏が賜った。 古墳時代以降の東国随一の勢力であったといわれるが、実のところ『古事記』『日本書紀』では上毛野氏に関して多彩な伝承が記述されるものの、7世紀中葉(大化前後)を境として唐突に記載されるため、伝承と史録との間には大きな溝がある。問題点として、史録の部分からは毛野との関わりをうかがえる記載は少ない。毛野地域内には豊城入彦命を始めとした『日本書紀』の伝承にある人物の陵墓と伝わる古墳が多く、伝承に何らかの背景があったことが指摘されており、その中で、毛野地域が東国経営拠点と位置づけられ、世襲的に任された王族がいたことが示唆されるという見解すらある。前述したように上毛野氏が在地豪族であるか、中央豪族であったかは詳らかにはなっていない。上毛野(上野)・下毛野(下野)に分かれる以前に存在した「毛野王朝」の王であった豪族と見る考えもある。関連して、武蔵国造の乱における上毛野氏の立場から上毛野氏は6世紀前半期まで大和朝廷に対抗出来るだけの勢力を有していたとみる見解も、古くから存在する。古墳の変容を踏まえても、5世紀代にヤマト王権と同盟・連合関係にあったと考えられる「毛野政権」は、解体を経て6世紀前半からヤマト王権の体制に入っていくと考える説がある。 なお、氏神とされる赤城山を祀る赤城神社には、上毛野氏による創祀伝承が残っている。『日本書紀』では豊城入彦命の母が紀伊出身と記載され、祖先発生地を「紀」に求め、祖先の名を「とよき(豊城入彦命)」・信仰する山を「あかき(赤城山)」としたという語源説がある。関連し、『新撰姓氏録』の豊城入彦命後裔として諸蕃雑姓和泉・摂津・河内諸氏族があることに着目し、紀伊に始まって5世紀まではこれらの地で勢力を築き、6・7世紀は東国に移住、8世紀以後は中央貴族として活躍したという説が提唱されている。 毛野地域(群馬県・栃木県南西部)は、古墳時代に実に多くの古墳が築かれたことが知られる。上毛野においては、東日本最大の太田天神山古墳(群馬県太田市、全長210mで全国26位)を始めとして、全長が80mを越す大型古墳が45基、総数では約1万3000基もの古墳が築かれており、日本屈指の勢力であったとしか考えにくい。すでに4世紀初頭には前方後方墳が築かれ、同地方の土器が使用され、4世紀中葉以降前方後円墳に移行。畿内の石工による石棺の築造も認められる。この頃毛野では首長連合政権が形成されたと見られ、少なくとも5世紀前半以降には畿内豪族と同盟関係にあり、ヤマト政権内部で極めて重要な位置を占めたと考える説がここから提唱されている。5世紀中頃には東日本最大の太田天神山古墳が築かれ、一帯で最大規模を誇っていた。この太田天神山古墳やお富士山古墳(群馬県伊勢崎市)にはヤマト王権王陵に見られる長持形石棺が使用されている。6世紀後半からは、地域内の各地に大型古墳の林立が顕著であり、これら各地に豪族が割拠していたと見られ、上毛野氏の本拠地としては『続日本紀』「上野国勢多郡小領」や赤城神社の存在を基として「赤城山南麓」と見るのが定説とされ、その地には大室古墳群が存在する。7世紀に入っても大型の方墳が築かれ続けた総社古墳群(群馬県前橋市)に本拠地を求める説もある。この地には山王廃寺(放光寺)があり、後世には上野国府が置かれた。 |
【投稿日】2024/04/24 08:26:47 【投稿者】匿名さん |
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