留守
【読み】るす,とめもり
【全国順位】
23,539位
【全国人数】
およそ160人
由来解説
留守さんの多い地域 TOP5
| 都道府県 | 人数 |
|---|---|
| 宮城県 | およそ20人 |
| 神奈川県 | およそ20人 |
| 千葉県 | およそ20人 |
| 鹿児島県 | およそ10人 |
| 山形県 | およそ10人 |
| 市区町村 | 人数 |
|---|---|
| 山形県米沢市 | およそ20人 |
| 長崎県長崎市 | およそ10人 |
| 鹿児島県霧島市 | およそ10人 |
| 宮城県塩竈市 | およそ10人 |
| 佐賀県佐賀市 | およそ10人 |
留守さんの比率が多い地域 TOP5
| 都道府県 | 比率 |
|---|---|
| 山形県 | 0.00132% |
| 佐賀県 | 0.00109% |
| 宮城県 | 0.00098% |
| 鹿児島県 | 0.00092% |
| 長崎県 | 0.00087% |
| 市区町村 | 比率 |
|---|---|
| 静岡県駿東郡小山町 | 0.025% |
| 宮城県塩竈市 | 0.021% |
| 山形県米沢市 | 0.018% |
| 愛知県知多郡東浦町 | 0.013% |
| 千葉県八街市 | 0.01% |
留守さん有名人アクセスランキング TOP10
| 名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
|---|---|---|---|
| 留守 邦寧 | 1830年 4月 7日 | 歴史 | 仙台藩一門第三席水沢伊達家13代(留守氏30代) |
| 留守 景宗 | 1492年 | 歴史 | 戦国武将、留守氏16代、伊達尚宗次男 |
| 留守 宗利 | 1590年 | 歴史 | 陸奥仙台藩一門第三席・水沢伊達家2代(留守氏19代) |
| 留守 政景 | 1549年 | 歴史 | 戦国武将、留守氏18代当主、伊達晴宗三男 |
| 留守 顕宗 | 1519年 | 歴史 | 戦国武将、留守氏17代、陸奥国宮城郡岩切城主 |
| 留守 郡宗 | 歴史 | 室町後〜戦国時代の武将、留守氏15代(14代)当主 |
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| 留守さん みんなの名字の由来 |
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留守氏(るすし)は、藤原北家道兼流と称する武家・士族。 伊沢家景が奥州征伐後の1190年に源頼朝から陸奥国留守職に任じられ、子孫がその地位を世襲したことで留守氏を称す。 南北朝・室町期には岩切城を本拠に国人領主化したが、伊達氏からの養子が繰り返されたことでその影響下、江戸期には仙台藩主伊達家の一門家臣として伊達に改称し水沢を領し、水沢伊達家と呼ばれた。維新後、留守に復姓して士族。 家祖伊沢家景は公家に仕える侍だったが、北条時政に見いだされ源頼朝に仕える。 奥州征伐後の1190年(建久1年)に陸奥国留守職に任命、多賀国府に入封。家景の子・家元以降も留守職を世襲したため留守氏を称す。 鎌倉時代には陸奥国府多賀城を拠点に活動したが、陸奥国内の大半が北条氏の所領となると留守職は次第に形骸化していく(ただし北条氏国守の地位も次第に形骸化していき、同国統治については引き続き留守氏が実務を担っていたとする説もある)。 南北朝時代以降は、岩切城を本拠とする国人領主となる。 当初は南朝方として活動、元弘3年(1333年)9月北畠顕家より陸奥諸郡の奉行に任ぜられたが、建武3年(1336年)1月に顕家が義良親王を奉じて霊山へ移ると、他の奥州諸勢力と同様に北朝方に転じた。 正平6年/観応2年(1351年)に観応の擾乱が勃発すると、留守家冬は足利尊氏方につき、岩切城に畠山高国を迎え入れ足利直義方の吉良貞家と戦うが、岩切城は陥落する。 敗戦によって留守氏は壊滅的打撃を被り、吉良方に加勢した国分氏に所領の多くを切り取られてしまった。 これ以降、両者は宮城郡の支配権をめぐり長きにわたって争うことになる。 後に奥州探題・大崎氏の介入を受けた留守詮家が、切腹に追い込まれると伊達氏に救援を請うが、代償として伊達氏から次々と養子を送り込まれ(14代郡宗・16代景宗・18代政景)、16世紀前半までには、次第に伊達氏傘下へと組み込まれていった。 天正18年(1590年)、18代・留守政景は小田原征伐に参陣しなかったため、奥州仕置によって留守氏は本領を没収、以後は甥の伊達政宗に仕えた。 文禄2年(1593年)磐井郡二桜城主となっていた政景は、伊達姓を与えられ一門家格に列す。 この後政景の家系は、一関城主・金ケ崎城主を経て、寛永6年(1629年)政景の子・宗利が胆沢郡水沢城(正式には水沢要害)に入り、幕末まで同地を治めたことから、同氏は水沢伊達家と呼ばれる。 このため水沢伊達家の歴代当主を、伊達姓に復帰した政景からではなく宗利から数える場合がある。 政景の直系は4代・宗景までで絶え、養子として仙台藩4代藩主・綱村の弟・村任が養子に入る。 元禄8年(1695年)、村任が新設された中津山藩の藩主に就任すると、水沢領を涌谷伊達家から迎えた養子・村景に譲り水沢を離れ、以後は政景の来孫である村景の血統が当主を継ぐ。 水沢伊達家の禄高は1,633貫588文、水沢伊達家家臣団(陪々臣)は808家であった。同家家臣だった家から高野長英、後藤新平伯爵、斎藤実子爵が出ており、「水沢の三偉人」と称される。 13代・邦寧は、戊辰戦争後の慶応4年(1868年)12月、28万石に減封となった仙台藩が水沢伊達家領を没収したため失領。翌明治2年(1869年)に邦寧は旧姓に復して留守氏を名乗る。 なお水沢伊達家旧臣は明治4年に北海道の平岸村(札幌市豊平区平岸)に移植する者が多かった。 明治7年の邦寧の死後、長男の基治が跡を継いだが、明治14年に死去。弟の景福が家督を相続。 明治17年(1884年)に華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案『爵位発行順序』所収の『華族令』案の内規(明治11年・12年ごろ作成)や『授爵規則』(明治12年以降16年ごろ作成)では、旧万石以上陪臣が男爵に含まれており、留守家も男爵候補に挙げられているが、最終的な『叙爵内規』では旧万石以上陪臣は授爵対象外となったため士族のままだった。 明治15年・16年ごろ作成と思われる『三条家文書』所収『旧藩壱万石以上家臣家産・職業・貧富取調書』は、留守家について、旧禄高1万6000石余、所有財産及び職業は空欄、貧富景況は可と記している。 『授爵録』(明治三十三ノ一年)によれば、明治33年(1900年)5月9日に旧万石以上陪臣かつ、年間500円以上の収入を生じる財本を有する25家が男爵に叙された際、留守家については「旧禄高壱万石以上と唱うるも大蔵省明治四年辛未禄高帳記載の高と符合せざるもの又は禄高帳に現米を記載し旧禄高の記載なきに因り調査中のもの」12家の中に分類されたため授爵されなかった。また旧禄高は1万6000石とするも現石は58石5斗と記している。 明治15年時の調査では留守家の貧富景況は可となっているが、その後に家計状態が悪化、年間500円以上の収入を生じる財本を確立できなかったらしく、同家が華族に列せられることはなく、士族にとどまった。 |
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【投稿日】2026/04/07 20:55:15 【投稿者】匿名さん |
| 留守氏の祖、御家人伊沢家影は、京都の公家侍だったとれされており、源頼朝が征夷大将軍として奥州藤原氏を滅ぼした際、奥州留守職(ルスシキ)に抜擢され多賀城に拠点を置きました。うちの先祖もそれに従いその近辺に定住したようです。 奥州留守職は、頼朝亡き後形骸化し、伊沢氏は、その職を姓として留守氏を名乗りました。留守氏は、その後、陸奥国宮城郡の岩切城等で独立した領主として鎌倉、室町時代を経て戦国時代を迎えますが、岩代国伊達郡の伊達氏から2度養子を迎え、その勢力圏に入ります。2度目の養子が独眼竜正宗の叔父政景で、伊達の姓を許され伊達藩の重臣となり、政宗とともに朝鮮も含めた各地を転戦します。 ところが伊達本藩は、豊臣秀吉の小田原攻めにあたって、軍勢を送らなかったことを咎められ伊達郡等の拠点を没収の上、現在の宮城県と岩手県の一部62万石に大減封されてしまいます。結果、伊達本藩が仙台に拠点を構えることとなり、留守氏は宮城郡の領地を明け渡し、北辺の守りを任され清水(スズ)城、一関、金ヶ崎城など拠点を移動北上し、最後に胆沢郡水沢(奥州市水沢)1万6千石で江戸時代を過ごすことになります。我が先祖も付き従って、今もこの地に生活しております。 留守氏は大名伊達市の家臣(陪臣)なのですが、家柄を尊重されたのか参勤交代の際は、単独で大名行列をくむことを許され、江戸まで往復したようです。100人余りの行列の絵も残されています。また我が家で、行列順の役割、身分、人名を記載した文書も見つかっております。 明治になると、江戸時代名乗っていた伊達姓から留守姓に戻しています。きっと伊達姓以上に留守姓に誇りを持っていたと思われます。 |
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【投稿日】2021/04/08 17:51:23 【投稿者】だめ爺さん |
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