真田
【読み】さなだ,まなだ,しんた,しんだ,まさだ,まだ
【全国順位】
783位
【全国人数】
およそ24,100人
由来解説
真田さんの多い地域 TOP5
| 都道府県 | 人数 |
|---|---|
| 東京都 | およそ2,900人 |
| 大阪府 | およそ2,100人 |
| 千葉県 | およそ1,900人 |
| 神奈川県 | およそ1,700人 |
| 埼玉県 | およそ1,400人 |
| 市区町村 | 人数 |
|---|---|
| 岡山県倉敷市 | およそ440人 |
| 千葉県南房総市 | およそ410人 |
| 静岡県裾野市 | およそ350人 |
| 広島県福山市 | およそ300人 |
| 富山県富山市 | およそ230人 |
真田さんの比率が多い地域 TOP5
| 都道府県 | 比率 |
|---|---|
| 石川県 | 0.052% |
| 広島県 | 0.0461% |
| 岡山県 | 0.04045% |
| 山梨県 | 0.03402% |
| 愛媛県 | 0.03298% |
| 市区町村 | 比率 |
|---|---|
| 愛知県北設楽郡東栄町 | 1.546% |
| 福岡県朝倉郡東峰村 | 1.237% |
| 千葉県南房総市 | 1.085% |
| 宮崎県東臼杵郡美郷町 | 1.012% |
| 北海道虻田郡京極町 | 0.892% |
真田さん有名人アクセスランキング TOP10
| 名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
|---|---|---|---|
| 真田 信繁 | 1570年 3月 8日 | 歴史 | 織豊〜江戸初期の武将、大名、真田幸村 |
| 真田 裕貴 | 1984年 2月 7日 | スポーツ選手 | 元プロ野球選手 元コーチ |
| 真田 聖也 | 1988年 1月 28日 | スポーツ選手 |
|
| 真田 信吉 | 1593年 | 歴史 | 上野沼田藩2代藩主、真田信幸(信之)長男 |
| 真田 まこと | 1994年 12月 28日 | 芸能人 | グラビアアイドル、タレント |
| 真田 信幸 | 1566年 | 歴史 | 真田信之 |
| 真田 幸春 | 歴史 | 鎌倉時代の海野氏出身者、海野幸継7男、滋野朝臣姓海野氏流真田氏祖 | |
| 真田 幸弘 | 1740年 2月 18日 | 歴史 | 信濃松代藩6代藩主、真田信安長男 |
| 真田 幸忠 | 1810年 8月 23日 | 歴史 | 江戸後期の信濃松代藩世嗣、島原松平忠馮十男 |
| 真田 広之 | 1960年 10月 12日 | 芸能人 | 俳優 本名は下澤廣之 |
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【戦国武将・大名の家紋】
| 真田さん みんなの名字の由来 |
|---|
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真田氏(さなだし)は、武家・華族。 信濃国豪族として興り、戦国時代に武田氏に属し勢力を伸ばし、武田氏滅亡後に、真田昌幸が信濃国小県郡と上野国吾妻郡を領有する小戦国大名として自立。 関ヶ原の戦いでは、昌幸と次男信繁(幸村)が西軍、長男信之が東軍について分裂したが、信之の系統が江戸時代に信濃松代藩主家として続き、幕末の戊辰戦争では、官軍して奮戦して倒幕に貢献した。 明治維新後華族となり、当初子爵に叙されたが、維新の功により伯爵に陞爵。 江戸時代に作成された『真田家系図』によると、真田氏は清和源氏流貞保親王の孫の善淵王を祖とする家系とされ、信濃国小県郡(現在の長野県上田市)の海野棟綱あるいは、真田頼昌の子という真田幸綱が、小県郡真田郷を領し真田庄の松尾城に居住して以後、真田姓を名乗ったという。 通字は「幸」または「信」。 近世には幕府からの求めもあって、大名の多くが自家の系図づくりを行い出自を名族に結びつける傾向にあり、真田氏系図も信州松代藩主家となった真田家が作成したものであることから、真田氏が清和源氏の出であるとする説は疑問である。 そもそも祖宗としている海野氏が滋野氏嫡流を名乗っているが、出自を清和源氏とすること自体がこれと矛盾する。 海野氏との関係についても、自らを信濃の名族である滋野氏嫡流である海野氏傍流とし、出自を結びつけた可能性が大きく、こちらにも疑問符が付く。 なお、真田家菩提寺の長国寺には、「松代侍従滋野幸貫」と刻まれた灯籠が存在、真田幸民を従四位に叙する宣旨でも「従五位守松代藩知事滋野朝臣幸民」と記載され、松代藩主・藩知事真田氏が、滋野を本姓としていたことがわかる。 『華族類別録』では貞保親王を祖とする滋野朝臣として記載されている, 他には、真田郷が古代の官牧地域であることに着目、国牧管理者の大伴氏が土豪化して真田を名乗ったとする説、また真田家の家伝に百済王の子孫とする一説(『真武内伝』)もあるが、これも出自とするのは不自然である。 『滋野氏三家系図』では、鎌倉時代中期の海野幸氏の子・長氏の子の幸春を「真田七郎」と記し、これが系図における真田の初出である。 応仁2年(1468年)に起きた海野氏幸と村上頼清の戦い(海野大乱)では真田郷の洗馬城が戦場となっており、この時期に真田氏が存在していれば、この戦いに巻き込まれていたことが考えられるが、史料も無い。 実在が確認できる人物では、室町時代の応永7年(1400年)に信濃守護小笠原氏に対する国人領主の抵抗として起こった大塔合戦を描いた「大塔物語」において、大文字一揆衆の大将で滋野三家禰津氏(根津氏)当主禰津越後守遠光の配下に、「実田」の名が見られ、これが真田の当て字(または当時は実田と記した)で”サナダ”と読むとすれば真田氏初見となる。 旧真田町(上田市)には、真田の他に横尾・曲尾などの地名・集落があり、実田と共に横尾・曲尾の名もある事から、一つの集落を領する程度の小土豪だったと推定できる。 また吉沢好謙が、延享元年(1744年)に著した『信陽雑志』によれば永享12年(1440年)の結城合戦に参陣した禰津越後守遠光配下にも、同じく真田源太・源五・源六の名が見られる。 これらのことより、室町中期に存在した真田氏は滋野三家(海野・祢津・望月)のうち祢津氏に属していた可能性が考えられる。 戦国期(室町末期)になると、永禄10年(1567年)8月に生島足島神社に奉納された起請文(生島足島神社文書)に、海野衆として真田綱吉(右馬助)の名が登場、海野氏に属していることが判る。 この起請文は武田家からの要請で海野氏一党が出した物であり、そこに名がある綱吉の実在性は高いと思われるが、同世代と思われる真田幸隆との関係は不明。 また真田一族の矢沢氏の菩提寺(良泉寺)に伝わる「良泉寺矢沢氏系図」「良泉寺過去帳」には、海野棟綱の女婿として真田頼昌を、その子に真田幸隆・矢沢綱頼・常田隆永を記しており、綱吉の名はない。 はっきりしているのは、戦国時代の天文年間に、故地(信州小県郡の山間にある真田郷)を追われた真田幸綱(幸隆)と名乗る人物がおり、武田家に仕えたということのみである。 高白斎(こうはくさい、駒井政武)が記した『高白斎記』の天文18年(1549年)3月14日の条に、「七百貫文ノ御朱印望月源三郎方へ被下候、真田渡ス、依田新左衛門請取」、と出ている。ここに出てくる真田氏が幸綱である。 真田氏発祥の地として知られている旧・小県郡真田町(2006年(平成18年)に上田市に合併)は、信濃川水系の神川の長谷寺(ちょうこくじ)沢の扇状地にあり、北に標高1649メートルの大松山、西に1379メートルのオコウ山、南に1301メートルの東太郎山、東に2066メートルの烏帽子山に囲まれた標高750メートルほどの小盆地。 真田は、独立した村でなく寛永6年(1629年)に甲石村(かぶといしむら)が真田村と横沢村に分かれ、大日向村も出来た。 江戸時代の初頭には、甲石村の中の一集落と認識されていた。 宝永3年(1706年)の「甲石之郷指出帳」(『上田半村明細帳』)に真田村の戸数は128軒、人数747人、馬数72疋と記載されている。 長谷寺は、天文16年(1547年)幸綱が一宇を建て、真田山種月院長谷寺と号し、上州の長源寺より伝為晃運(でんいこううん)大和尚を招請。 天正2年(1574年)5月19日、幸綱が没し、この曹洞宗真田山長谷寺に葬られた。位牌には一徳斎殿月峰良心大庵主とある。 真田氏最初の拠点は真田郷の北西にある洗馬城といい、その後中央部の平坦地に、内小屋城を築いた時期に真田郷全域を掌握したと考えられる。 天文10年(1541年)の海野平の戦いにおける真田氏の動向は資料に無いが、戦いに敗れた海野棟綱が、関東管領の上杉憲政を頼って上野国に逃れるのと同時期、幸綱も上杉憲政の家臣で上野国箕輪城主・長野業正の下に身を寄せており、当時は近隣の有力勢力である滋野一党に組み込まれ、海野方で戦ったことが推定される。 上杉の援助による旧領奪回が困難になると、信濃侵攻を行っていた甲斐の武田晴信(信玄)に仕え旧領を回復すると共に、縁故の滋野氏支族が多い東信濃や上野方面で活躍、次第に真田氏の勢力基盤が築かれていった。 この時期の本拠地は真田氏館、真田本城とも言われるが定かではない。 武田家中においても信濃先方衆の有力武将として、幸綱のみならず嫡男・信綱、次男・昌輝も活躍、信綱は家老に、昌輝は信玄直属の百足衆を率いた時、信玄に「兵部(昌輝)は我が両目」と言わしめるほどであった。 また三男・昌幸は武藤家を、四男・信尹は加津野家をそれぞれ継いでおり、真田一族は武田家において重用されていたことが窺える。 なお武田24将に真田信綱、昌輝(幸綱や昌幸が入ることもある)が入っており、親子兄弟からこれほど選ばれている例は他家にはない。 永禄10年(1567年)、嫡男・信綱が家督を継ぎ、天正3年(1575年)の長篠の戦いで当主・信綱と次男・昌輝が討死すると、武藤喜兵衛を名乗っていた三男昌幸が真田姓に復帰して家督を相続する。 昌幸は信玄近習を勤めたこともあり、武田氏滅亡時には武田勝頼に真田の影響下にある吾妻山中の要害の地岩櫃城に篭ることを進言したという。 昌幸は武田氏が滅んだ後織田信長に恭順した。 しかし本能寺の変で信長が横死、昌幸は本拠地として、上田城の築城に着手しながら混乱する信濃にあって主家を転々と変え、真田家の勢力維持に奔走する。 徳川氏と北条氏が甲信を巡り、対陣した天正壬午の乱の和議では、上野を北条領とし、真田氏支配の沼田城周辺も北条に割譲するが、徳川はその代替地を用意することが定められた。 しかし昌幸は、これを拒否したため徳川軍7千の攻撃を受けるが、昌幸は2千余人の城兵で上田城を守りきった(第一次上田合戦)。これで真田氏は独立した大名として認められることになる。 最終的に昌幸は、上杉景勝を通じて豊臣秀吉の臣下に入り、秀吉の命で徳川家康と和解する。 そして徳川氏の与力大名となったことから、嫡男・信幸と本多忠勝娘で家康養女となった小松姫との婚姻が成った。 これらの過程で真田宗家は、名目上は徳川氏の与力大名だが実際は豊臣の家臣である昌幸と次男信繁(上田城)と、名目上は昌幸の所領の一部を収める領主だが実際は徳川の与力大名である長男信幸(沼田城)の2家体制となる。 なお加津野家を継いだ信尹も、武田家滅亡後は真田姓に戻り、北条・徳川・蒲生と主家を変えてながら真田分家を興している。 蒲生氏郷の死後は徳川家に帰参して旗本奉行を勤め、大坂の陣では家康の使者として信繁を相手に交渉したことで名を上げた。この系統は以後5,000石の大身旗本として幕末まで続く。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは昌幸は西軍、信幸は東軍に与して分裂した。昌幸と次男・信繁は、上田城で徳川秀忠率いる約3万の軍勢をわずか数千で迎え撃って秀忠軍を釘付けにし(第二次上田合戦)、秀忠の関ヶ原遅参の一因を作ったと言われる。 しかし努力のかいもなく、戦いは東軍の勝利となり、同年12月13日に昌幸と信繁は紀伊高野山山麓の九度山に流刑となる。 東軍についた長男・信幸改め、信之は父の本領信濃国小県郡3万8000石を与えられ、占領していた上野国利根郡沼田城2万7000石と3万石の加増を加えて都合9万5000石を領して上田城に住した(信濃上田藩)。 その後の大坂の陣で、信之は出陣せず、豊臣方に参じた信繁が徳川方を寡兵で翻弄し日本一の兵と評された。 元和8年(1622年)に信之は4万石加増のうえ信濃松代藩へ転封、松代城に住した。この際沼田領3万石を長男信吉に分与した。 これにより支藩の沼田藩が立藩されたが、同藩は天和元年(1681年)に江戸・両国橋御用材の調達の遅れを理由とされ改易されている。 松代藩は沼田藩と合わせて13万石の表高にされていたため、沼田藩改易で松代藩は4郡95か村10万石となり、この石高で廃藩置県まで存続した。 松平定信次男で真田家に養子に入り、8代藩主となった幸貫は、藩政改革に努めて佐久間象山を登用した。幕政でも海防掛老中に昇進した。 伊予宇和島藩主伊達宗城長男で、真田家養子に入った幸民が慶応2年(1866年)に最後の松代藩主に就任し、その翌年に江戸幕府は崩壊。 王政復古後、幸民率いる松代藩は、速やかに維新政府に恭順、戊辰戦争で官軍の信州触頭として奥羽戦線に藩兵を送り、会津藩との戦闘で戦功を上げる。 その功績により明治2年(1869年)に幸民に賞典禄3万石が下賜。同年の版籍奉還の後松代藩知事に任じられ、華族に列した。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた。 版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で3715石。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄(3715石)と賞典禄(実額7500石)の合計1万1215石の代わりに支給された金禄公債の額は、18万1219円81銭8厘(華族受給者中35位)。当時の幸民の住居は東京市芝区琴平町。 旧松代藩は表高(公的な米の生産高)は10万石だったが、現米(税収)では37,150石であったため、伯爵の内規である「現米5万石以上の中藩」に該当せず、1884年(明治17年)の華族令施行時に旧小藩知事として子爵に叙される。 しかし真田家の維新の功が考慮され明治24年(1891年)4月23日付けで伯爵に陞爵が認められた。 幸民が死去した後には息子の幸正 - 幸治 - 幸長 - 幸俊と直系で続いている。 なお現当主の幸俊は工学者で慶應義塾大学教授である。幸光は慶應義塾大学経済学部教授。 昭和前期、真田伯爵家の邸宅は東京市麻布区材木町にあった。 現在は「真田会」という親睦会があり、代表理事は昌幸の女婿小山田茂誠から数えて13代目に当たる小山田恒雄(1932生)が務める。 真田幸教の実子(幸民義弟)である幸世が真田伯爵家から分家して明治29年(1896年)6月30日に華族の男爵に叙される。 幸世は貴族院の男爵議員に4回当選して務めた。幸世は明治43年に南米や欧州を一周旅行。 昭和前期に男爵家の住居は長野県埴科郡松代町にあった。幸世夫人綾子は、阿部正恒三女。 幸教の長男幸邦は総理府技官を務めた。 幸邦夫人喜子は立花種政長女(立花種忠子爵養女)。幸邦の養子に幸徳(成澤直道長男)。幸徳は株式会社サップ取締役を務めた。 |
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【投稿日】2026/03/11 09:56:39 【投稿者】匿名さん |
| 聖徳太子一族で天武天皇の子孫の田中氏が開墾地につけた地名を子孫や家臣など関係者が名乗ったと思われます。 田中氏は聖徳太子時代から百済と友好関係にあり、百済王氏とも縁組みしています。百済王氏の先祖に新羅の真平王がおり、田中氏百済王氏の子孫には名前によく小野良真とか平真砂子とか藤原平子とか真平王の字をつけています。 田中氏の娘が桓武天皇に嫁ぎ子孫が平高望と妹の真砂子です。桓武天皇の母親も百済王の子孫です。 田中の田、真平王または真砂子の真から真田の地名を田中氏一族は各地に作ったと思います。砂子田の地名もあります。 ちなみに真田一族の拠点上田の地名は先祖聖徳太子の上宮家の上と田中の田です。 田中氏子孫が桓武天皇と清和天皇に嫁ぎ源平どちらの先祖にも田中氏小野氏百済王氏がいます。 そのため源平が真田を名乗ったと思います。 また田中氏子孫の平高望の望と田中氏先祖の孝霊天皇の別称大日本根子彦太、小野の先祖の月の女神瀬織津姫から望月や根津、田中氏先祖大海人皇子と小野から海野の名字もあり、滋野も田中氏先祖天武天皇の別称浄御原の浄のサンズイと百済王氏先祖の義慈王の慈と小野の野から字を組み合わせたと思われます。 地震噴火被災で田中氏は真田姓の人を田中氏総本家別邸のある秋田にも避難させており真田姓の人の村の隣に砂子田村があり、合わせると真砂子になっているのです。田中氏はこういうパズル的な言葉遊びが好きです。 |
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【投稿日】2025/06/13 07:09:37 【投稿者】妹子と天武天皇と坂上と鎌足の子孫・小町さん |
| 真田氏と同族の【滋野氏三家】に海野氏、望月氏、根津氏がある。 |
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【投稿日】2023/05/04 16:16:43 【投稿者】治彦さん |
| 【貞元親王】は、清和天皇の第三皇子で、滋野氏の祖とされるが、【貞保親王】清和天皇の第四皇子もまた、滋野氏の祖とする説がある。【真田系図】には、初代の名前を【貞元親王】としている。 |
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【投稿日】2023/05/03 16:46:19 【投稿者】治彦さん |
| 【歴史読本】昭和62年10月号の清和源氏満快流に、真田氏、佐奈田氏がある。『系譜』多田満仲の五男の多田満快は、右衛門尉、下野守、相模介などのほか、検非違使をも歴任して、従五位上を極位とした。そもそも【清和源氏】は、清和天皇の第六皇子の貞純親王の子【源経基】の子が多田満仲であるが、【源経基】の子に多田満快がある。どうなってるのか同姓同名かわからない。 |
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【投稿日】2023/05/03 15:08:10 【投稿者】治彦さん |
信越自動車道の長野県長野市【松代パーキング】にある観光看板に次のように書いてある。『以下抜粋』【真田十万石の城下町「松代」】松代は、武田二十四将の一人真田幸隆の子昌幸が関ヶ原戦、大阪夏の陣に、徳川方に長男信之、豊臣方に次男信繁【真田幸村】を遣わし、徳川方と縁をもった信之が上田六万石から松代十万石の城主として転封されてから十代二五○年続いた城下町である。
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【投稿日】2023/05/02 19:11:17 【投稿者】手島さん |
『真』が異体字の「さなだ」さんもいます。
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【投稿日】2021/11/27 13:58:16 【投稿者】ちば子さん |
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読み:さなだ、しんた、しんだ、まさだ、まなだ、まだ 真は真・眞の異体字 |
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【投稿日】2019/01/18 20:59:16 【投稿者】@瀨 こまくさ寮さん |
| 私の父は仙台真田系子孫(真田信繁次男大八系)、母は松代藩三代藩主真田幸道の直系。真田の旧字は眞田で清和天皇第四皇子貞元親王がはじまりで眼病治癒の為、浅間山の麓の温泉にて湯治、そこの女性と結婚し善淵王が産まれ天皇より滋野性を賜り後に海野になり眞田となる。 |
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【投稿日】2018/12/12 19:34:02 【投稿者】のほほんさん |
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真田は母の旧姓です。 九州出身です。 本百姓身分だった先祖が戦国大名に憧れて、明治になって付けた苗字らしいです。 |
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【投稿日】2017/07/02 17:25:27 【投稿者】ゆうっぴ☆彡さん |
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