尼子
【読み】あまこ,あまご,あし,あご,にし,じこ
【全国順位】
6,878位
【全国人数】
およそ1,300人
由来解説
尼子さんの多い地域 TOP5
| 都道府県 | 人数 |
|---|---|
| 広島県 | およそ360人 |
| 兵庫県 | およそ200人 |
| 大阪府 | およそ180人 |
| 神奈川県 | およそ70人 |
| 東京都 | およそ50人 |
| 市区町村 | 人数 |
|---|---|
| 広島県尾道市 | およそ140人 |
| 兵庫県赤穂市 | およそ40人 |
| 広島県広島市中区 | およそ30人 |
| 広島県呉市 | およそ30人 |
| 広島県広島市西区 | およそ30人 |
尼子さんの比率が多い地域 TOP5
| 都道府県 | 比率 |
|---|---|
| 広島県 | 0.01308% |
| 鳥取県 | 0.00789% |
| 兵庫県 | 0.00375% |
| 大分県 | 0.00248% |
| 島根県 | 0.00244% |
| 市区町村 | 比率 |
|---|---|
| 北海道虻田郡京極町 | 0.297% |
| 島根県邑智郡川本町 | 0.206% |
| 広島県尾道市 | 0.103% |
| 兵庫県赤穂市 | 0.088% |
| 三重県多気郡多気町 | 0.059% |
尼子さん有名人ランキング TOP10
| 名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
|---|---|---|---|
| 尼子 義久 | 1540年 | 歴史 | 戦国〜江戸前期の大名、武将、尼子晴久嫡男 |
| 尼子 經久 | 1458年 12月 25日 | 歴史 | 戦国武将、大名、出雲守護、十一ヶ国太守 |
| 尼子 勝吉 | 1884年 12月 23日 | 経営者 | 商人、醤油醸造家、広島県多額納税者、実業家 |
| 尼子 政久 | 1488年 | 歴史 | 戦国時代の武将。尼子経久嫡男 |
| 尼子 晴久 | 1514年 3月 8日 | 歴史 | 出雲国の戦国大名、尼子氏5代、八カ国守護 |
| 尼子 久幸 | 歴史 | 戦国時代の武将、尼子氏家臣 | |
| 尼子 騒兵衛 | 1958年 | 芸術家 |
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| 尼子 高久 | 1363年 | 歴史 | 南北朝時代の武将、近江尼子氏祖、京極高秀次男 |
| 尼子 持久 | 1381年 | 歴史 | 室町時代の武将、出雲尼子氏祖・2代、出雲守護代 |
| 尼子 清定 | 1410年 | 歴史 | 室町中期〜後期の武将、出雲守護代、尼子氏3代 |
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| 尼子さん みんなの名字の由来 |
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尼子氏(あまごし)は、近江国尼子郷を本拠地とした武家。室町幕府の外様衆として京都で活動した。出雲国の尼子氏と同族。 出雲国の尼子氏は、明応の政変以前段階では京都での活動は見えないので、それ以前に活動が見られる外様衆としての尼子氏は近江国を本拠とした系統である。 尼子刑部少輔秀久は足利義持から近江国尼子郷を安堵されており、尼子高久の子であると考えられる。 長禄2年(1458年)に足利義政に供奉している宮内少輔国貞がいる。 足利義凞の大将拝賀に帯刀として供奉している宮内少輔長綱が見え、国貞の子と考えられる。 永正7年(1510年)には足利義稙から「近江敵退治」に出陣するよう命じられた佐々木一族の中に、佐々木尼子刑部少輔が見え、近江尼子氏(外様衆尼子氏)の出身であると考えられるが、その後の近江尼子氏と幕府との関係については不明である。 |
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【投稿日】2026/05/07 08:46:20 【投稿者】匿名さん |
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尼子氏(あまごし)は、武家・士族。 室町時代中期に京極氏の分流京極高久が所領の近江国犬上郡尼子郷から尼子を称したのに始まる。 京極氏の守護代として出雲に下って勢力を拡大、経久の代に守護を世襲した京極氏が断絶したことから守護となり、出雲を中心に山陰地方の国人を従え安芸国、石見国において大内氏と中国地方の覇を争ったが、やがて大内氏を滅ぼした毛利氏に圧迫され、義久の代に居城月山富田城が落城。 以降義久とその子孫は毛利氏の家臣となり、江戸時代には佐佐木に復姓して長州藩士家として続き、維新後士族。通字は「久」(ひさ)。 尼子氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家で、京極尼子家とも呼ばれる。家紋の平四つ目結(ひらよつめゆい)も、京極氏のそれである。 南北朝時代の婆娑羅大名として、初期の室町幕府で影響力を持った佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、尼子を称したことに始まる。 宗家京極氏の出雲守護代を務めるも、京極氏が断絶したことで自らが守護となる。 室町時代に高久の次男・持久は、宗家京極氏が守護を務める出雲の守護代として同地に下向、月山富田城(現安来市広瀬)に拠った。 やがて出雲と隠岐の守護代を通して雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。 出雲においては永享11年(1439年)よりその存在が確認される(『日御崎神社文書』)。 応仁の乱では出雲守護代として勢力を拡大している。 遅くても永正年間には、尼子氏宗家は室町幕府より外様衆として位置づけられ(『大舘常興書札抄』)、後に守護職獲得の布石となった(外様衆が守護に任じられた先例はあり、京極氏でも守護に任じられたことがある加州家は外様衆に位置づけられている)。 またこれとは別に、近江に残留した系統も早い時期から外様衆に加えられて将軍家直臣となり、戦国時代に入って六角氏の影響下に置かれながらも存続している。 尼子氏の本貫地が近江であることを考えると、こちらの系統が本来の尼子氏の嫡流で、出雲に移った持久-清定の系統は庶流であった可能性もある。 15世紀末に守護代を継承した持久の孫・経久は、室町幕府からの税の要求に従わなかったため、文明16年(1484年)に追討令が出されたが、2年後の文明18年(1486年)には守護・京極政経と嫡男の材秀が経久に出雲国を任せて上洛しており、出雲国内は特段混乱などはしていなかったと考えられる。 永正11年(1514年)には、出雲守護を継承していた京極吉童子丸が死去し、京極氏が断絶したことで、同族である尼子氏は守護となった。 永正5年(1508年)に、前将軍・足利義尹(後の義稙)を戴き、大内義興が山陽・山陰・九州勢を率いて上洛すると、細川高国はこれに呼応し、共に入京した。 上洛に経久は従い、京では船岡山合戦に参加している。この時期に、次男・国久は細川高国から、三男・興久は大内義興から偏諱を受けている。 しかし永正15年(1518年)、経久の嫡男・政久は合戦にて討ち死にし、享禄3年(1530年)、三男・塩冶興久が出雲西部・南部及び備後の有力国人と結託し反尼子勢力として反乱を起こすと、これを鎮圧し首を取るなど子との関係には色々因縁があった。 なおこの乱以降、天文8年(1539年)まで、大内氏とは表面上は和睦関係を維持しており勢力拡大の矛先は東に向けられている。 経久は出雲鉄の事業開発や海上交易を行ない、山陰を中心に勢力拡大に励んだ。 天文6年(1537年)、経久は家督を孫の晴久(詮久)に譲っている。晴久の時代、尼子氏は戦国大名として最盛期を迎え、山陰・山陽八ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護、及び幕府相伴衆に任ぜられた。 天文年間にかけて、尼子氏は備中を平定、備前から美作・播磨への勢力拡大を図っている。 天文8年(1539年)には、上洛の構えを見せていた晴久だが、いわゆる大内包囲網が瓦解し、西からの圧迫が強まったこともあり、出雲へ撤収している。 天文9年(1540年)、3万の軍勢で安芸へ侵攻、大内氏方の安芸有力国人である毛利氏の本拠地・吉田郡山城を攻めるが、毛利氏への大内義隆援軍・陶隆房の活躍などもあって吉田郡山城を攻め切れず、翌天文10年(1541年)には兵を引いてしまう(吉田郡山城の戦い)。 天文11年(1542年)、今度は大内軍が大内義隆を総大将として、毛利氏ら安芸、周防、石見の国人衆も集め、2万の兵で出雲に出兵してくる。 この遠征は1年4ヶ月続いて月山富田城は攻囲されるが、尼子氏所領奥地に侵入した大内軍の補給線と防衛線をゲリラ戦術で分断しながら、大内氏配下の三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経ら国人衆を寝返らせて大内軍を弱体化させ、翌天文12年(1543年)敗走させた(第1次月山富田城の戦い)。 天文23年(1554年)、惣領である晴久の元から、政治的に距離を置くようになっていた「新宮党」(出雲にも多くの直轄地を持つ独立集団と化していた)を率いる尼子経久次男・国久、誠久親子を滅ぼすなど、集権化を進め、さらなる尼子氏の勢力拡大を図った。 晴久の元、尼子氏は最盛期を迎え、その勢力は本拠である出雲、直轄地である伯耆、隠岐の他、石見東部、美作、因幡西部、備後北部、備中北西、備前西部まで及び、尼子家の名は中央にまで届くほどであった。 1558年、尼子氏支配下の備後北部に毛利氏が攻撃を開始、その際、晴久は備前の浦上氏を攻撃していたが、直ぐに美作東部から兵を引き返して備後へ援軍に駆けつけた。しかし備後北部の尼子方国人衆は駆逐されており、尼子軍は備後より撤退。備後庄原から南部の支配権を喪失した。 備後は、本国である出雲にも近い事より、尼子氏の影響力が強い所であったが、元就のこの備後侵攻によって山陽方面への影響力を喪失してしまう。 この山陽方面での影響力喪失などが、後々に次代の義久の時代に暗い影を落とすことになる。 弘治3年(1557年)に大内氏の内紛後の混乱を制した毛利元就は、安芸から防長を手中にした戦国大名となり、やがて石見東部へ侵攻を始めた。晴久は石見銀山を巡る戦いでは優勢であったが、永禄3年(1561年)に晴久が急死する。 晴久の跡を継いだ嫡男・義久は、この事態に際し、将軍・足利義輝に毛利氏との仲介を依頼し一旦、和睦したものの毛利元就はその後、一方的にこれを破棄、永禄5年(1562年)より出雲侵攻を本格化させた(第2次月山富田城の戦い)。義久は月山富田城に籠城、尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。 永禄6年(1563年)に元就は支城である白鹿城を攻略すると、月山富田城を包囲して、兵糧攻めに持ち込んだ。同時に元就は謀略を開始、疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼をも粛清してしまう。 ついに永禄9年(1566年)11月、義久は降伏を余儀なくされ、ここに戦国大名尼子氏は滅亡した。 その後、尼子氏遺臣である山中幸盛や立原久綱らは、新宮党の末裔尼子勝久を擁立して、織田信長の援助を受けながら各地で抵抗し、一時は城を得て尼子氏を再興した。 しかし天正6年(1578年)に播磨上月城を毛利軍に落とされて勝久は自害し、幸盛は誅殺され、尼子氏の大名としての復活はならなかった。 尼子勝久亡き後の尼子再興軍については、信長からの播磨上月城放棄退却の命を主君に伝え、復命に戻った尼子氏庶流の亀井茲矩が生存、残党を率いその後も転戦を続け、本能寺の変後も引き続き秀吉麾下にて朝鮮出兵にも参加、因幡国鹿野より転封を経て、長州と隣接する石見国津和野に津和野藩四万三千石の大名として明治まで続いた。 同藩の筆頭家老職を明治まで世襲した多胡氏もまた、雲芸和議の後も尼子方として毛利軍と徹底抗戦し敗死した石見刺賀城主・多胡辰敬の直系である。 一方嫡流の尼子義久は、毛利氏に降った後、安芸国、ついで関ヶ原後に毛利氏が移封された長門国に移り、毛利氏の庇護のもとで暮らしていたが、慶長15年(1610年)8月28日に長門で死去(享年71)。 毛利家の意向により、養子の尼子元知(弟の倫久の長男)が尼子氏を継ぎ、以降尼子氏は代々長州藩士家として存続。 就易の代(曽祖父隆慶の母が国久の娘)から、晴久が粛清した国久の系統が、尼子の血脈を後世に伝えることになった。また彼の代から尼子氏のもともとの姓である佐佐木氏を名乗るようになった。 尼子・佐佐木家の長州藩内での家格は寄組で、1292石余取りだった。 1940年(昭和15年)に最後の当主・寅介が嗣子なく東京・高輪の毛利家別邸で亡くなったため、尼子高久から続いた尼子氏は絶家。 ただし、寅介とは別に佐佐木甚五朗・忠雄系統を尼子宗家とする説もあり、そちらの系統は2018年現在も存続している。 また義久の直系の子孫は、毛利の重臣福永氏として、末代まで残る。 尼子氏の拠点であった福永要害の所在地名である、現広島県神石郡神石高原町福永から、福永姓を名乗ったとも、先祖である佐々木源氏の所領近江国福長(永)荘から名乗ったとも言われるが詳細は不明である。 直系子孫は昭和初期、福長(永から長へ)に改姓、昭和30年代まで山口県防府市に在住していた。嫡流子孫は現在広島市安佐南区中須に在住。庶流は山口県、広島県、愛媛県等に在住している。 幕末の長州藩士来島又兵衛政久(旧姓:喜多村氏)の養父政常は、尼子経久の子・森親久を祖とする来島(きじま)氏の末裔とされる。 尼子晴久の娘は三沢為清に嫁いで血を残し、後に三沢氏からは伊達綱宗の側室・三沢初子(三沢清長の娘)が出る。初子は伊達綱村(仙台藩主)・伊達村和・伊達宗贇(宇和島藩主)を産む。その為、宗贇以降の宇和島藩主は初子の子孫であり、幕末の四賢侯と謳われた伊達宗城もその一人である。 |
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【投稿日】2026/05/07 08:30:49 【投稿者】匿名さん |
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