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【名字の由来解説】
鎌足─不比等─〔南家祖〕武智麿─〔南家乙麿流〕乙麿─是公─雄友─弟河─高扶─清夏─維幾─〔南家為憲流〕為憲……正義……〔安氏の祖〕安鎌人之佐藤原正忠。
藤原鎌足10世の藤原維幾(従五位上武蔵守・常陸介)を祖とし、その15世正義は鎌倉の関東公方足利氏満に仕ヘ、武州橘樹郡飯野郷朝日平沢2村を給い、その九世の正忠は武田民部少輔信是(信虎五男・信玄の弟・松尾城主)に仕ヘ下野国足利郡安野安応安鷲3村に於いて永五十貫を給いその偏字を取リ氏を安と改めた。1590年秀吉が全国統一。徳川家康は秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。武田(松尾)信是(~1571)の没後は信玄の命により、弟・河窪信実(かわくぼ のぶざね)の息子河窪信俊が家督を相続。天正10年(1582年)の武田家滅亡後は徳川家康に仕え、子孫は旗本(2700石)となっている。その子信貞の代に松尾姓から武田姓に復している。
武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保すると、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。慶長7年(1602年)自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ、常陸国水戸25万石に旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興し水戸藩を治めさせている。
慶長8年(1603年)9月11日、信吉は生来病弱であったらしく、わずか21歳で死去し武田氏は再び断絶した。水戸藩は異母弟の頼将が入り、頼将が駿府に移封の後は、同じく異母弟の頼房が入部し、水戸徳川家の祖となる。信吉の家臣の多くは水戸家に仕える。
それに伴い藤原(安)正忠も常陸国(現茨城県ひたちなか市)に移る。藤原維幾は桓武平氏の平高望(従五位下上総介)の娘を妻としその子為憲は工藤氏の祖となる。安は藤原氏であるとともに桓武平氏の子孫でもある。
最終更新:2024/05/25 02:32:05 最終更新者:真白
安さんの多い地域 TOP5
都道府県 | 人数 |
---|---|
茨城県 | およそ2,100人 |
東京都 | およそ650人 |
神奈川県 | およそ210人 |
千葉県 | およそ200人 |
埼玉県 | およそ140人 |
市区町村 | 人数 |
---|---|
茨城県ひたちなか市 | およそ1,300人 |
茨城県水戸市 | およそ250人 |
茨城県常陸太田市 | およそ230人 |
茨城県那珂郡東海村 | およそ100人 |
茨城県那珂市 | およそ90人 |
安さんの比率が多い地域 TOP5
都道府県 | 比率 |
---|---|
茨城県 | 0.07599% |
鹿児島県 | 0.00538% |
東京都 | 0.00493% |
千葉県 | 0.00323% |
神奈川県 | 0.00236% |
市区町村 | 比率 |
---|---|
茨城県ひたちなか市 | 0.823% |
茨城県常陸太田市 | 0.437% |
鹿児島県大島郡徳之島町 | 0.322% |
茨城県那珂郡東海村 | 0.256% |
鹿児島県大島郡喜界町 | 0.164% |
安さん有名人ランキング TOP10
名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
---|---|---|---|
安 直樹 | 1977年 10月 6日 | スポーツ選手 | 車いすフェンシング選手 |
安 世舟 | 1935年 4月 12日 | 研究者 | 政治学者(やす・せいしゅう) |
安 めぐみ | 1981年 12月 22日 | 芸能人 | 俳優 タレント |
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安さん みんなの名字の由来 |
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安(やす)さんは茨城県に多く、特にひたちなか市に集中している。 |
【投稿日】2019/03/06 00:37:26 【投稿者】ちば子さん |
甲斐武田氏家臣・諏訪の伊藤氏(藤原工藤氏) 諏訪志料に「伊藤氏、元 工藤にて、始め伊東を称す。大織冠鎌足十一代 為憲の孫時信に至り、伊豆伊東を領し、氏とす。その孫 維永、その子 維景(駿河守)、その男 維職(伊豆工藤の祖)、その男 家継(工藤大夫)、その子 祐家に至り二家に分かれ、一を祐親・伊東次郎と称し、後 入道、その男 祐清・伊藤九郎と称す。而して祐清は、義仲に従い、功あり家記に 当 伊藤氏は祐清の男 清長より出づと。 清長(伊藤九八郎)-祐義-祐信(伊藤久左衛門)-祐朝(伊藤八郎左衛門)-祐重(伊藤八十郎)-祐政(伊藤主計)-祐時(伊藤八左衛門)と相続、代々 武田家に仕う、祐時は信虎、信玄二代に仕え、功あり。祐行(伊藤八郎)は、祐時の男なり、勝頼に仕う、武田滅亡の後 浪人し、小坂の里に潜居 帰農す。 甲斐武田氏家臣・工藤氏(藤原) 甲斐国守護で戦国大名である武田氏の家臣には工藤一族の名が見られる。工藤昌祐は守護・武田信縄の側近として活動している。また、工藤祐久も武田信虎の側近であると考えられている。 信虎の子息である武田信玄の譜代家老には内藤昌秀(大和守)がおり、上野国箕輪城の城代を務めている。武田勝頼の時代には奉行工藤喜盛長門守がいる。武田氏滅亡後は三河国の徳川家康に仕え、徳川氏の甲斐 支配を担った徳川四奉行の一人となる。喜盛は天正18年(1590年)の徳川氏の関東移封から後の動向は不明。一方、工藤喜盛は『武田三代軍記』によれば譜代家老・内藤昌秀の実兄であるという。喜盛は箕輪城に在城し、昌秀の代わりを務めていたと考えられている。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおける昌秀の死去ののちも箕輪城に在城し、城代代行を務めていたと考えられている。天正7年(1579年)には甥にあたる昌秀の子息・昌月が箕輪城代として赴任するとこれを補佐する。 工藤昌祐(まさすけ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。武田四名臣の1人・内藤昌秀(昌豊)の実兄。武田信虎の重臣・工藤虎豊の長男として生まれる。父・虎豊が信虎の勘気に触れて誅殺されると、連座を恐れて弟と共に武田家から出奔して流浪した。信虎が武田晴信(武田信玄)によって追放されると、弟と共に甲斐に召還されて家臣として再び仕えた。弟の昌秀ほど重用されてはいなかったようであるが、天正2年(1574年)8月に弟の代理として上野箕輪城番を務めている。長篠の戦いで弟が戦死した後も生存が確認され、天正9年(1581年)には弟の後継者である内藤昌月と連署する形での龍朱印状(武田家の軍政において行政執行の裁量権を持つ者で、軍政の中枢に位置する者)が確認されている。安はこの工藤一族と見られる。 |
【投稿日】2016/09/19 20:27:23 【投稿者】kenさん |
使用家紋:左三つ巴・下り藤 |
【投稿日】2016/08/29 11:46:18 【投稿者】kenさん |
みんなの名字の由来 投稿 |
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