平島

【読み】ひらしま,ひらじま,へいじま,へいしま
【全国順位】 1,320位
【全国人数】 およそ12,600人


由来解説

①現徳島県である阿波国平島庄が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏足利氏流がある。
②ほか多田氏流。
③桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)。
諏訪氏。
などがみられる。

「島」は一定の小区画を表す。「平」は平らな地形を表す。
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最終更新:2026/03/08 11:00:38  最終更新者:匿名


平島さんの多い地域 TOP5

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平島さんの比率が多い地域 TOP5

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平島さん有名人ランキング TOP10

名前 生年月日 ジャンル 備考
平島 義景 1613年 3月 6日 歴史 江戸前期〜中期の阿波徳島藩の人物、5代平島公方
平島 正郎 1926年 研究者 音楽学者
平島 公方 歴史 足利将軍家の別家
平島 義寛 1797年 歴史 江戸後期の武士、平島公方足利家、平島義根子
平島 真一 1947年 7月 31日 研究者 経済学者
平島 ひさ美 1984年 12月 3日 芸能人 グラビアアイドルの【初音ひさみ】
平島 敏夫 1891年 11月 4日 政治家 政治家 教育者
平島 栄子 1950年 10月 7日 スポーツ選手 体操選手1972年ミュンヘンオリンピック
平島 彩香 1997年 12月 15日 芸能人 タレント
平島 義辰 1644年 10月 18日 歴史 江戸中期の阿波徳島藩の人物、第6代平島公方
※上記は直近一週間のアクセス数Top10です。すべての平島さん有名人は以下から確認できます。

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平島さん みんなの名字の由来
平島公方(ひらじまくぼう)、または阿波公方(あわくぼう)は、血統的には室町幕府11代将軍・足利義澄の次男足利義維(のち義冬)の末裔で、家柄的には足利義視、義稙、そして義維と続く足利将軍家別家である。
平島源公または、平薹源公の敬称で呼ばれていた。

代々、阿波国平島荘古津(那賀郡平島村古津(ふるつ)、那賀川町古津、現・阿南市那賀川町古津、及び隣接する南東の西原(西原駅)、大京原、三栗、苅屋(苅屋川流域)、赤池(平島小)、上福井(多くの小字を含む。旧・福井村)、北中島、中島(阿波中島駅の起源))に住す、

なお、公方と称されるものの、この系統で実際に将軍職に就任したのは第14代将軍足利義栄のみで、義栄以外の人物には、将軍家一族という意味で使われる。

明応の政変に加え永正の錯乱まで勃発すると、足利氏将軍職争いに細川氏の管領職争いまで絡んだため、畿内の戦乱は複雑化し長引いた。

足利義視の子・足利義稙と、足利政知の子である足利義澄の争いは、畿内の有力守護大名を巻き込み混迷を深めた。

やがて将軍職が12代・足利義晴(義澄の子)で一本化されようとも、細川氏では細川高国と細川晴元が、なおも管領職をかけて争い続けていた。

その際義晴将軍を名目上であろうと担ぎだした場合には、現職の管領(高国側)が官軍となり、他方(晴元側)が賊軍となってしまう。

元将軍の義稙は大永3年(1523年)に阿波で死去していた。そこで義澄の実子でありながら、義稙の養子となっている足利義維が必要とされた。

義維が義稙の子(養子)であるというその事実こそが、義晴将軍に対して厳然たる対立軸として有効に機能する権威であったため、晴元側としては見逃せない大きな魅力であった。

他方、義維としても、晴元に荷担することがあわよくば将軍への道が拓けよう、養父の義稙の無念を晴らせるであろうという利害の一致があった。

その後大永7年(1527年)の桂川原の戦いで敗退した高国が、掌中の玉・義晴将軍を伴って近江国坂本へ逃亡したため、立場を逆転させた義維・晴元体制は、和泉国で新政権樹立の足掛かりを築くまでになる(堺公方)。

挽回を期する管領の細川高国を摂津国にて破り、自害にまで追い込んだ晴元であったが、この後は徐々に変心した。

空位となった管領の座に就き、義維を棄てて義晴将軍を推戴する側に回ったためである。

晴元は保身のため、それまで晴元軍の中核であった有力被官・三好氏の弱体化を図って和泉国の顕本寺を敵対宗派の一向一揆に襲わせた。

顕本寺を根拠地としていた三好氏の総帥・三好元長(海雲)は自害、義維を阿波国へ逃がした。

かくして堺公方は消滅、将軍の夢を断たれた義維は、天文3年(1534年)に阿波守護・細川氏之(持隆)に迎えられ、阿波国平島荘の西光寺に入り、3千貫の所領を得る。

その後永禄年間に平島塁を修築して、平島館に移った。阿波の人々が、足利家の子孫を「平島公方」と呼ぶ起源となった。


元長の遺児・三好長慶は、長い歳月をかけて亡父以上に勢力を伸ばすと、終には晴元を追い落とし、幕府の相伴衆に上り詰めた。

実質幕政の中枢を握ったに等しい事態である。その間、平島公方の血統は細川氏や三好氏の庇護を受けていたが、将軍への道は拓かれずに過ごしていた。

なお天文22年(1553年)に細川氏之が家臣の三好実休によって殺害されると、義維は長子の足利義栄らとともに正室の実家である大内氏を頼って周防に下向、永禄6年(1563年)に阿波に戻ったとされる。

しかしこれは事実ではなく、実際は阿波に逼塞していたと考えられている。

やがて長慶の死去に伴い、三好氏では三好三人衆による指導体制に移行したが、幕政からの三好氏排除を目論む13代将軍・足利義輝への対応に苦慮するようになり、三人衆らは困り果てた末に永禄8年(1565年)5月19日には二条御所を襲撃、義輝を弑逆するという暴挙に出た(永禄の変)。

将軍に辞任を迫ることがあっても、命を奪うまでの行為は言うなれば禁じ手であったが、三好領内に居をかまえていた平島公方(義維や義栄)の存在が実行に踏み切らせた一大事件でもある。

新しい公方に迎えられるに当たって、堺公方消滅時には20歳余と若かった義維は、病気のため除外されたことで、長子の義栄が擁立され、朝廷から左馬頭に叙任された。ところが三好三人衆が、松永久秀との内部権力抗争に明け暮れ、義栄の将軍就任への働きを疎かにした。

実際に義栄が将軍に就けたのは、永禄11年(1568年)2月8日であった。

若狭・越前の朝倉や近江の六角など反三好の勢力が京都周辺には残っており上洛できなかったのが、就任の遅れ(朝廷がなかなか許可しなかった)に強く影響したものと思われる。

前将軍の義輝襲撃から、2年半以上の歳月が流れていた。しかもその後も義栄の入京はままならず、将軍宣下を受けても、なおも摂津国に留まり続けていた。患っていた腫れ物を悪化させていた事も影響したとの説もある。

将軍就任に向けて無駄に歳月を浪費した事態は、新体制を固めきれない三好政権には好ましくない結果をもたらした。

同年9月、前将軍・義輝実弟である足利義昭を推戴する織田信長が上洛軍を発したのである。

近江国の六角氏を退けて進軍する織田軍とは、「義栄を戴いての決戦」を選択肢に残していた三好氏ではあったが、結局は阿波国への退避を選択した(義栄の病没により断念した可能性もある)。

その後、織田氏への抵抗を幾度も示した三好氏ではあったが、戦局の悪化により畿内復権の道は閉ざされた。


義栄が死去しても、弟の義助によって家名は存続された。

だが、義昭政権の後ろ盾であった信長軍は三好氏(その没落後は長宗我部氏)が単体で退けるには力の差がありすぎた点に加え、若干の奉公衆はいるものの、独自の大兵力がない公方家であった。

天正5年(1577年)以降、土佐の長宗我部元親が阿波に侵攻することになった。だが義助は、元親から阿波への出兵と所領の安堵を伝えられほか、天正10年(1582年)9月には馬を送られるなど、元親との友好を深めている。

長宗我部氏が義助を尊重する意思を示したのは、阿波はもとより四国では依然として、足利将軍家の家格による効力があったからである。

天正13年(1585年)7月、義助を尊重していた元親が豊臣秀吉の四国征伐で敗れ、土佐一国を領有するのみとなった。

そして戦後の論功行賞により、阿波は蜂須賀家政に与えられた。

蜂須賀氏阿波入りに至って、義助は3千貫の所領を没収され、平島にわずか100石の「茶料」のみが与えられることとなった。これ以外に、後の徳島市富田町3丁目に当たる地を得て、蜂須賀氏との折衝などのための出屋敷として使用した(富田下屋敷)。


平島公方の権威は長宗我部氏らには尊重されたが、豊臣政権の下で国持大名となった蜂須賀氏の下では、そうした権威は自身の統治において邪魔な存在でしかなかった。


豊臣秀吉天下になっても1万石という待遇を保てた足利義昭や、江戸幕府の下で大名格の扱いを受けた喜連川氏(鎌倉公方家後裔)とは対照的に、織豊期はおろか徳川期における蜂須賀氏客将時代でも、平島公方は冷遇されていた。

一方で、堂上家(公家)である水無瀬家や持明院家の娘や西洞院家の養女を妻に迎えた当主もおり、その権威や血筋を京都の天皇家をはじめとして朝廷の貴族からはある程度認められていた。

しかし実際の暮らし向きに権威や血筋が反映されておらず、阿波徳島藩主・蜂須賀家からは客将として扱われたとはいえ、上述のとおりわずか100石の茶湯料しか与えられていなかった。

蜂須賀家としては、領内にこのような権威を持つ特別な家が存在することは好ましくないが、領外に退去させることも踏み切れなかったためである。

慶長13年(1608年)、足利義次は足利の家名を平島に改姓、平島又八郎と名乗らされたうえ、公方家の藩に対しての取り次ぎ窓口を家老職から、一般寄合階級に振りかえるなどの一層の冷遇を受けた『平島公方史料集』所収の史料によると、蜂須賀家は阿波公方家を自身の直臣下として組み込もうと計画していた事実もある。

不遇下でも、歴代当主の中には漢籍などに長けた者(例えば義宜)などが多く、一大文化拠点のようなものを形成していたこともあった。

4代義次の代には旧領のうち七浦山が返還され、5代義景の代には現米100石の合力米が許され、やがて明和年中(1764年 - 1771年)には現米950石が給され1190石まで知行が加増したなど、ようやく待遇の改善も見られた。蜂須賀治昭の幼少の頃は友好関係を取り戻していた。8代義宜は京都の学者の島津華山を招いたことで、公方家の住まいであった平島館は漢文学サロンを形成することになった。

だが文化2年(1805年)、9代義根は病気療養を名目に、阿波退去の許可を請うた。藩主蜂須賀治昭は、好学であったため義根の教養を惜しんで引き留めたが、義根の意志は変わらなかったため阿波退去を許可、義根には餞別として銀300枚を、平島家代々の墓がある西光寺には墓守料50石を与えた。

退去の真相は明らかではないが、義宜の頃より、平島家が松平大和守や大奥を刺激した、蜂須賀重喜追い落とし工作に対する蜂須賀家の平島家への意趣返し(栄典剥奪など)に耐えかねたという説や、屋敷や領内の七浦山の上質の木材を未処分のまま、あわただしく退去していることから、義根の子・義寛を紀州藩に仕官させる内約があったため急いで退去したという説がある。

しかし急いで退去したというには疑問がある。退去を公方家が阿波藩に届けてからかなり経過していること、それについて退去督促状を阿波藩が公方家側に出していること、退去費用捻出のために屋敷の施設を各所に売却するなどしていたこと、退去時の同行家臣は公方が平島に居着く以前の者に限ることなどを阿波藩が布告、その通りにさせていることなどが挙げられる。

また、義寛の仕官の伺いは、阿波退去後に出されていること、安政年間に、義俊が紀州藩家老宛に「知行地もしくは邸宅下賜の願い」を出していることなどが上げられる。 『徳島県史』がこれらに触れていないのは、編纂時に平島側史料にそれほど拠っていないためだと言える。

文化2年(1805年)7月25日、義根一行は船で京都に向け出港した。

その後義根は、母方実家の京に居を定め、姓を平島から足利に戻したが、禄もないので次第に窮迫して家臣の数も減らしていき、等持院などかつての足利将軍家が庇護を与えていた臨済宗系大寺院からの援助を受けるなどして、足利の家名を維持したという。

蜂須賀家にも援助することを求めたが、蜂須賀家は退去の経緯から断っている。

なお江戸時代末期までは、平島公方家には紀州藩から毎年200両の援助があった。

明治時代に入ると、義俊は、足利将軍家正当な末裔として華族に遇されるように運動を行ったが、多くの華族取り立て志願の家と同じように却下された。実収入の伴わない名門華族にはもともと反対の声が多く、受爵に失敗したのみか、阿波藩から脱藩していたため士族にもなれず、洛西の下山田村(現在京都市西京区)にて帰農、平民となった。

14代当主の足利義弘は京都に住み、足利将軍家と関係がある自治体らで作る「全国足利氏ゆかりの会」の特別顧問を務めた。義弘は2018年10月に徳島県阿南市で開かれたゆかりの会の総会にも参加している。
【投稿日】2026/03/08 11:21:30
【投稿者】匿名さん
平島氏は、清和源氏足利将軍家の別家である。
【投稿日】2025/04/05 06:55:34
【投稿者】豊治の次男さん
みんなの名字の由来 投稿
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平島さん みんなの家紋のはなし
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